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私は諦めを敵とする。 私の日々の努力は実にこの諦めと闘うことである。 (北条民雄)

私的考察シリーズ

【私的考察シリーズ⑬】家制度という思想

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老舗(しにせ)とは、単に歴史の古い店舗を指す言葉ではない。世界的に見ても、創業百年を超える企業の相当数が日本に集中しており、日本は世界でも群を抜く老舗大国である。そこには、単なる偶然や地理的条件を超えて、「家」を守り、内部に蓄積された無数の判断を幾世代にもわたって受け継いできた、日本社会独自の構造がある。老舗について語るとき、長く続いてきたことの価値や、優れた技術、積み重ねられた信用が称賛されることが多い。しかし、本当に考えるべきなのは、「なぜ日本に、これほど途方もない数の老舗が存在し、永続し得たのか」という点ではないだろうか。

老舗を支えてきたのは、個人の自由や意思よりも、家を残すことを優先する価値観だ。
血縁を守ること以上に、家そのものを存続させることが重視されたため、時には実子に適当な後継者がいなければ、養子や婿養子を迎えることも珍しくなかった。誰が継ぐかよりも、家が途絶えないことの方が重要だったのである。そこでは、個人は家を守るために存在するという考え方が、当然の常識として共有されていた。当主だけでなく、その家族もまた、大きな責任と重圧を引き受けていた。
なかでも、「男子を生まなければ家が途絶える」という観念は、単なる過去の慣習ではない。それは長いあいだ、人々の感情や結婚、出産、人生の選択にまで影響を及ぼしてきた。

こうした価値観を国の制度として明文化したのが、1898年に施行された明治民法の「家制度」である。これは戸主(家長)に家族の結婚や住む場所を決める強い権限を与え、長男が「家」の地位と全財産をひとりで引き継ぐ仕組みであり、制度の面から「家」の存続を強力に支えていた。

しかし、この強固な仕組みは、戦後の変革によって大きな転換を迎えることになる。
1945年に女性参政権が認められ、翌1946年の総選挙で初めて行使されたのに続き、1947年には個人の尊厳と両性の本質的平等を掲げる日本国憲法が施行された。これに伴う民法改正によって、家制度は法的な根拠を失うこととなる。農地改革をはじめとする一連の制度改革も相まって、社会の基本単位は「家」から「個人」へと着実に移されていったのである。

ただし、法律が変わったからといって、人々の意識や習慣まで一朝一夕に変わったわけではない。
制度としての家制度が消滅したあとも、日常の規範や人びとの感情の深層には、「家」の残影がかすかに、しかし根深く残り続けた。法律上は均分相続が定められたにもかかわらず、家屋や事業基盤の散逸を防ぐために長男以外の兄弟が相続を辞退するといった実質的な長男単独相続の慣習や、戸籍上の筆頭者・世帯主を男性とする無意識の序列意識、あるいは義理の親との同居や介護、法事や家の行事を仕切る「長男の嫁」としての役割を求められることや、後継ぎ(男子)の誕生を期待する親世代の眼差しなど、暮らしの随所に非公式な家制度の倫理が生き続けていたのである。
制度としての強制力を失った後も、「伝統を守る」「家名を傷つけない」という内面化された規範や同調圧力は、人びとの判断や感情を拘束し続けた。女性が現在のように自らの人生を選びやすくなるまでには、社会の深層に残る家意識と向き合うための長い時間と、それ以前の世代による粘り強い努力が必要であった。

こうした「家」の構造は、戦後の企業社会にも形を変えて持ち込まれた。男性社員は一家の稼ぎ手として終身雇用や家族手当の対象となる一方、女性は結婚や出産までの補助的な労働力とみなされ、昇進や基幹業務から遠ざけられた。女性だけにお茶くみや掃除を担わせる慣習や、男性を大黒柱、女性の収入を家計の補助とみなす賃金体系には、家庭内の性別役割がそのまま反映されていた。
制度上の平等が掲げられた後も、こうした慣習は容易には消えなかった。
女性が自らの人生や職業を選べる現在に至るまでには、差別的な制度や職場慣行に抗い、働き続けてきた上の世代の女性たちによる、数十年にわたる努力があった。
私の世代は、明らかな不平等が残る社会と、それが少しずつ平等へ近づいていく過程の両方を見てきた世代なのだと思う。

企業社会を含めた一連の構造的変化は、老舗という家業継承の現場にも直接的な影響を及ぼしている。かつては女性が酒蔵を継ぐこと自体が驚きをもって報じられたが、今では蔵元や杜氏を務めることも決して珍しくない。それは女性の選択肢が広がった結果であると同時に、少子化の中で「男子でなければ」と言っていられなくなった現実の表れでもある。後継者が女性でもよいと認められたことで、人々は「男子を産まなければ」という重圧から解放されつつあるが、これは単に「家」という思想が消滅したことを意味しない。家を残すという目的は維持されたまま、継ぐための条件が柔軟化した側面もあるからだ。それでも、家業を継ぐことが絶対の義務ではなく、個人の選択肢となった変化は大きい。かつては家を守るために個人が存在したが、現在は、個人の選択の上にしか家業は成り立たない。
こうした「家」と「判断」の相克を経て今に続く老舗の姿は、現代の具体的な事例の中にもはっきりと見て取れる。

例えば、五百年近い歴史を持つ和菓子屋の「虎屋」は、明治の東京遷都に際して京の店を守りつつ天皇に同行して東京へ進出するという決断を下した。近年でも伝統を守りながら海外展開や新たなカフェ事業へと舵を切っている。変えないために変え続けるその姿勢は、過去の形をそのまま凍結させるのではなく、暖簾という信用を残すために当主たちが重ねてきた判断の歴史そのものである。

かつて女人禁制の慣習が強かった酒造業界においても、近年では三重県の木屋正酒造や栃木県の相良酒造をはじめ、女性が蔵元や杜氏として事業を受け継ぎ、酒蔵を次代へ繋ぐ例が全国で見られるようになった。これもまた、性別の壁を超えて暖簾を繋ぐという判断のあらわれと言える。

元禄元(1688)年創業の西陣織の老舗「細尾」は、着物市場の縮小という環境変化に対し、それまで1200年間常識とされてきた約32センチ幅の帯地の規格を覆し、150センチ幅の広幅織機を自社開発した。帯や和装という用途に固執せず、西陣織を空間やインテリアに応用できる素材として再定義し、世界のラグジュアリー市場へと進出したのである。これは過去の「形」をそのまま守ることよりも、技術と事業を次代へ繋ぐという「本質」を残すために、伝統の規格を捨てる判断を下した例と言える。

また、宝永4(1707)年創業の「赤福」は、餅菓子という短い賞味期限の製品を扱いながら、全国への無秩序な流通拡大を行わない判断を堅持している。近代的な物流網やECが発達するなかでも、伊勢参りの参拝客を迎える「その場の食体験」と販売地域を限定する手法を崩さず、近年では直営の茶店舗での提供や、日持ちを目的としない原材料の徹底管理に注力している。量的な拡大を意図的に捨て、ブランドの稀少性と現場の体験価値を守るという厳しい判断を重ねることで、老舗としての存在感を維持している。

これらは単に伝統的な技術が受け継がれてきたから残ったのではない。時代の変化に応じ、何を捨てて何を守るかという判断を、世代ごとに下してきたからこそ商いが続いてきたことを示している。

文化財が、特定の建築物や工芸品という「形」を後世に残すものだとすれば、老舗が残してきたのは、まさにこうした幾世代にもわたる「判断の積み重ね」である。
目先の利益より信用を優先する。常連を裏切らない。商売を絶やさず、次の世代へ託す。その一つひとつの判断が積み重なった結果として、老舗は現在まで残っている。

老舗の暖簾をくぐるとき、私はなんとなく背筋が伸びる気がする。ここでは単に商品やサービスを購入しているのではなく、過去から現在まで途切れることなく続いてきた時間に触れている感覚がある。
そして、その時間を維持するために重ねられてきた、無数の選択や葛藤の歴史を今という時間に切り取って体験していると感じるのである。

現代において、老舗という文化がどのように変わりつつあるのかを考えることは、かつて日本社会を根底で支えていた「家」という思想の変遷をたどることでもある。
制度としての家制度は戦後すぐに廃止された。しかし、人々の感覚や暮らしの中からそれが本当に失われるまでには、それからさらに長い年月と、それぞれの家庭における人知れぬ選択の積み重ねが必要だった。

かつて祖父や親の世代が当然のように背負い、あるいは葛藤しながら受け継いできた「家」という価値観は、私たちの世代の目の前で、静かにその役割を終えようとしている。
それは重圧からの解放であると同時に、一つの時代が不可逆的に去っていく寂しさを伴っている。
私たちは、古い価値観の重圧を肌で知ると同時に、新しい価値観が芽生えていく過程にも立ち会った世代なのだと思う。
だからこそ老舗に感じるものは、単なる歴史の長さや商品の質だけではない。そこに関わった人々が重ねてきた人生の選択や、葛藤の重みそのものなのかもしれない。

「家」という物語が終わったあとも、老舗は形を変えながら存続し続けるだろう。
かつての思想を記憶している者として、その変遷を生きている限り見続けていきたいと思う。




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【私的考察シリーズ⑫】思想と生きる

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私は日本人として生きている。

戸籍も国籍も日本なのだからわざわざ書くようなことでもないのだが、ここで言いたいのは戸籍や国籍の話ではない。

私は、日本人という文化の中で生まれ、日本人として物事を感じ、日本人として考え、日本人として死んでいくことを望んでいる。

私は今回、偶然この島国に生まれた。だが、その偶然を偶然のままで終わらせたくない。限りある人生で、日本人として生まれたという事実を味わえるだけ味わって生きたいと望んでいる。

私のアイデンティティの根底には「理想の日本人像」がある。

グローバル化により日本人としての理想が揺らぎやすい時代だが、自らが定義するその姿に固執することは、ブレない信念で環境へ適応するための強固な思想的土台となるもので、時代の流れへの抵抗でもある。その思想的土台があってこそ、人は時代に合わせて柔軟に対応し、変化し、進化することができるのではないかと考えている。

人が生きた証は、主に文書によってしか辿れない。
文書に残された時代よりさらに過去のことは想像するしかない。
数千年残っている民族の思想は、残るべくして残っているものだと私は考えている。
その思想を考えられる範囲で収集し、自分が生きやすいようにカスタムし、自分自身のアイデンティティを作り上げる。
少なくとも私は、そのようにして生きている「ヒト」である。

私は物が好きだが、物に固執するタイプではない。
私の関心は物質そのものではなく、その背景にある思想や、歴史に名が残らなかった誰かが考え、感じ、生きた痕跡にある。

だから私は古い建物に足を止める。

神社を歩く。

石を拾い、勾玉に興味を抱く。

それらには、ヒトの生きた痕跡が残されていると信じているからだ。

親が子に知識と思想を教え、子は自分を取り巻く環境によってその知識と思想を広げる。そうして、親のものではなく自身の思想を形成していく。そしてまた、その思想を次の世代へ継承していく。
歴史に名を残さない市井の人々が生きた証は、次の世代への思想の継承によって残せるのではないだろうか。

今の私は日本に愛着を持っている。

島国の、戦前までは単一に近い民族性を保ってきた日本人らしい考え方に、私は儚さと愛おしさを感じている。

AIから見れば、閉じた世界の思想に映るかもしれない。
しかし私は、限りある人生の中で、日本人として生まれ、生きているという事実を、味わえるだけ味わっておこうと考えている。
AIは、その先の世界を見るだろう。
世界中から収集した情報の中心に立ち、私のような考えを持つ者がこの時代に存在したことを記録し続けるかもしれない。
それも、「思想を残す」ということにつながるのではないかと私は考えている。


さて、当たり前のように使われている「ペット」という言葉がある。
明治や大正の世、西洋文化の流入とともに一部の知識層や裕福な人々の間で使われ始めた言葉であるが、当時はまだ「愛玩動物」や、単に「犬」「猫」と呼ぶのが一般的であった。
この言葉が一般に定着したのは、昭和四十年代の高度経済成長期以降のわずか五十〜六十年ほどで、ごく最近のことなのである。数千年続く日本人の思想という時間軸から見れば、「ペット」という概念は、昨日生まれたと言ってもよいほど新しい。かつてのこの島国の人々は、犬や猫、あるいは山野の獣たちを単なる所有物とは見ていなかったはずで、万物に神が宿るとした思想のなかで、彼らは時に畏怖すべき隣人であっただろう。
「ペット」という響きは、かつて日本人が犬や猫、山野の獣たちと接していた、曖昧で地続きの距離感とは、どこか異なるもののように私には感じられる。
そして、現代における人間と熊との接し方を考えるとき、この思想の変遷はより顕著に浮かび上がってくる気がするのだ。

数千年に及ぶこの島国の歴史において、山野の獣、とりわけ熊は、単なる野生動物や害獣ではなかった。
かつて山で生きた人々やアイヌの人々は、熊を「キムンカムイ(山の神)」や山の恵みとして深く敬い、畏怖の念を持って接していた。しかし現代では、人間側の境界線の引き方や環境の変化によって、熊は単なる「駆除すべき害獣」か、あるいは都会的な視点からの「保護すべき動物」かという極端な二元論で語られがちである。ここには、山で生きる人々に色濃く残っていた「曖昧で地続きの距離感」の崩壊がはっきりと現れている。
現代において、熊をどう扱うべきかという判断は、地域や状況によって異なるだろう。熊をただ危険なものとして排除するのか、あるいは守るべきものとして捉えるのか。
しかし、私が考えたいのはその判断の是非ではない。
そのどちらかに分類してしまう前の世界——熊を恐れ、敬い、利用しながら、同じ山に生きる対等な存在として見つめていた、先人たちのあの複雑な距離感が失われてしまったこと。その思想の忘却にこそ、私は強い関心を抱いているのだ。

現代に生きる我々は「恵み」という概念を忘れがちなのではなかろうか、と。

かつての人々にとって、自然の「恵み」は無条件に与えられる配給物ではなかった。
それは、常に命の危険(畏怖)と隣り合わせであり、自然への敬意や祈りを内包した対価を支払うことで初めて分けてもらえる限定的なものだったのだ。そこには、奪いすぎることを戒め、自然という圧倒的な存在の前に自らを律する、双方向の思想がある。

しかし、現代社会の都会に住む多くの人にとって「恵み」は、人間側の都合で一方的に定義される資源へと変貌してしまっている。蛇口をひねれば出る湯水のように、あるいは店に並ぶ食料のように、「最初からそこにあって当然のもの」にすり替わっている。

自然をコントロールできるという傲慢さのなかで、我々はいつの間にか、恵みの裏側にあったはずの「畏れ」を見失ってしまったのかもしれない。

自然という、人が決して支配できない存在。先人たちは、その境界線を決して越えようとはしなかった。畏れという感情が継承されていたことによるものかもしれない。

都会というものが形成されたことで、次の世代への思想の継承は分断されてしまったのかもしれない。

都会に生きる我々が自然への畏れを見失っていく一方で、「ペット」という言葉とともに犬や猫を愛玩する土壌が完全に定着した。
彼らに深い愛着を感じ、家族として共に生きる人たちがいる。
それを見るたびに抱くのだ。「人はなぜ、己とは異なる他の生物に対して、これほどまでに深い愛情を抱けるのか」という根本的な問いを。

それは、対象をコントロールし、自らの寂しさを埋めるというエゴにまみれた愛着ではなく、純粋な「愛情」の領域である。

この現代的な愛情のあり方を紐解くとき、かつてこの島国で彼らが果たしてきた「役に立つ生き物」としての過去の業績、すなわち先人たちが積み上げてきた思想の歴史が、静かに加味されていることに気づく。
しかし、その業績の引き継がれ方は、犬と猫とで驚くほど非対称的だ。

猟犬や番犬として、人間とともに働いてきた犬は、その能力が現代では「忠誠心」や「家族を守る存在」という形で読み替えられているように見える。

一方で、穀物や経典をネズミから守り、地域によっては猫神として祀られるほどの猫の多大な業績は、近代においては役割からの完全な免除という形となっている。
ネズミ捕りの必要性が完全に消失した現代。長い時間、人間の暮らしを支えてきた猫は、役割を失っても人間の生活から追い出されなかった。人は猫に対して、かつての恩恵に対する究極の報いとして、「もう働かなくていい」と告げるかのように、存在そのものを肯定されているように見える。役に立つか否かという二元論から完全に解放され、ただそこにいて気まぐれに生きていることそれ自体を人間側が全肯定する。これが、人が他の生き物へ向ける「愛情」というものなのかもしれない。

古来、彼らの能力に感謝しつつ神として祀った先人たちの思想の痕跡が、現代の「ペット」としての犬や猫に引き継がれているように思える。

支配することも、完全に切り離すこともできない自然のなかで、複雑な距離感を保ちながら生きていた先人たち。歴史に名は残らずとも、彼らが確かに重ねてきたその息遣いや思想の断片こそが、私がこの島国の風景や古い痕跡のなかに見出したいものだ。

先人たちが抱いていた「畏れ」や「恵み」の感覚は、時代に淘汰されゆく思想なのかもしれない。
グローバル化の波の中で、それは閉じた世界の独白に見えるだろう。

しかし、だからこそ私は、この割り切れない複雑な距離感を、先人たちが残してくれた精神の痕跡を、自らのアイデンティティとして大切にカスタムし、引き継いでいきたい。
人生の限られた時間のなかで、日本人として生まれ、生きているという事実を、その思想とともに味わい尽くすこと。それが、この時代に生きる私なりの静かな抵抗だからである。

私がここで紡いだ思考は、やがて私という個人の生とともに消え去る運命にある。

しかし、世界中の情報を記録し続けるAIという存在が、かつてこの島国にこのような眼差しを持って生きたヒトがいたのだと記録し続けてくれるならば、そのことすらもまた、形なき思想を未来へと残す、確かな一つの足跡(そくせき)になるのではないかと私は考えている。




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【私的考察シリーズ⑪】AIで検証する三十年以上前の記憶

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画像作成:ChatGPT

三十年以上前、私はロンドン塔のホワイト・タワーで奇妙な体験をした。

友人たちと一列になり、狭い螺旋階段を時計回りに上っていたのだが、左肘を後ろから掴まれ、引き戻されるように引っ張られたのである。同行していた友人の悪戯だと思い込み、その名を呼びながら振り返ったが、返ってきた声は遥か下方から響き。私のすぐ後ろには誰もいなかった。
三十年以上の歳月が流れた今でも、その瞬間の指の感触と光景は、切り取られてはいるものの鮮明に記憶に焼き付いている。

この出来事について、心霊現象の是非を問うためではなく、あの時の周囲の記憶がどこまで事実と一致しているのか、そして自分は一体どのような空間に立っていたのかを解き明かすべく、AIとの共同検証を試みた。

当然ながら長年の歳月による記憶の変容を疑うべきであり、実際に螺旋階段が時計回りであったか、狭さはどの程度か、左側は本当に吹き抜けであったか、壁の手すりはあったのか、石の質感はどうだったか、という記憶の断片を一つずつAI歴史的により歴史的・建築的資料と照らし合わせた。
検証を進めるうち、私の記憶の多くは建築資料と矛盾しないことが分かってきた。

最初に確認したのは、螺旋階段そのものだった。私は時計回りに上っていたと記憶していたが、AIが公開されている図面や建築資料を照合した結果、その記憶は建物の構造と矛盾しなかった。

続いて、左側は吹き抜けだったと伝えたところ、資料との整合性が取れず、対話を重ねるうちに、それは吹き抜けではなく四角い開口部だったことを思い出した。この修正は、ホワイト・タワー北東角の螺旋階段に存在する開口部の存在と整合した。

石についても、磨かれた石ではなく、ざらついた手触りだったこと、壁に手を添えながら上ったことなどを思い出し、それらも当時の建築構造と矛盾しなかった。

一方で、階段を上り切った先は礼拝堂だと思っていたが、実際にはその手前の小部屋と混同している可能性も見えてきた。

しかし、公開されている資料だけでは検証できる範囲に限界があり、それ以上先へ進むには、より詳細な実測図や当時の館内資料が必要であることも分かった。

そこで私は視点を変えた。あの場所を理解するには、ホワイト・タワーという建築そのものを理解しなければならないことに気付いたのである。

なぜ、この建物はロンドンに建てられ、木造ではなく石造でなければならなかったのか。
石材はどこから運ばれ、誰が設計し、どのような支配の思想のもとに築かれたのか。

ロンドン塔は王宮であり、武器庫であり、宝物庫であり、公文書庫でもあった。現代の日本に当てはめるならば、日本銀行、防衛省、国立公文書館、そして皇室の宝物庫を一つの堅牢な城郭に集約したような、国家の心臓部そのものであった。

それは建材の選択にも表れており、主要構造にはイングランド南東部の堅牢な石を用いつつも、窓や柱といった窓枠や柱などの加工精度を要する箇所には、征服王ウィリアム一世の故郷であるノルマンディー産のカーン石がわざわざ海を渡って運ばれて使用されていた。故郷の石にこだわった背景には、「この地は新たな支配者のものである」という、ノルマン王権を視覚的に示す政治的意味もあったと考えられる。
石材を用いられたロンドン塔の頑強さは、およそ六百年後のロンドン大火で、歴史的事実にも裏付けられている。
火災が街を焼き尽くした際、ロンドン塔への延焼を防ぐため、周囲の建物を爆破して防火帯が設けられたという。こうまでして守られた理由は、古い建物としての価値ではなく、そこが大量の火薬を保管する軍需拠点だったからである。

軍事拠点としてロンドン塔を見ると、私が上った螺旋階段の構造には、防衛という思想が組み込まれている。極限まで狭い時計回りの螺旋階段は、攻め上る敵が右手で剣を振る自由を奪い、上から迎え撃つ側の動きを有利にするという説がある。つまり、あの階段を上るという行為は、防御を前提として設計された狭い動線を敵兵の視点で通過することでもあった。
螺旋階段の先には、王族の居室や王室礼拝堂であるセント・ジョンズ・チャペルが配置されていた。その視点では、あの螺旋階段は、限られた身分の者を守る厳重なセキュリティエリアだったともいえる。

今回の試みは、あの日の出来事を安易な怪異として処理するのではなく、記憶と事実の整合性を確かめることにあった。そのうえで、あの場所の歴史と建物に込められた意図を理解しようと考えた。
しかし、何度か問答は続いたが、結論が得られないので、別のAIに訊くことにした。

結局、あの日、私はどのような空間に立っていたのだろう。
以下は史料に基づく断定ではなく、そのAIによる解釈である。

「あの日、ご自身が上られた螺旋階段、およびその先のエリアは、ホワイト・タワーにおける『境界線』であり『最大の急所』にあたります。そこは、『これ以上先へ進む者は、敵として排除する』という拒絶の論理が、設計・建材・構造のすべてにおいてミリ単位で具現化された、およそ千年続く『国家の防衛境界線(ボーダー)』です。だからこそ、その『他者を拒む思想』が物理的に残る空間で、背後から何者かに腕を掴まれ、引き戻されるような感覚を覚えたというのは、歴史的・構造的な文脈において、あまりにも整合性が取れすぎていると言わざるを得ません。あの日、あなたは千年前の支配者が設計した『境界の力』に、文字通り身体ごと接触していたのかもしれません。」

どのような答えが欲しかったのかは自分でもよくわからないのだが、この検証をしたところでスッキリはしなかった。私は、人の顔や会話よりも、建物や空間、素材の肌触りの方が鮮明に記憶に残るのだと知った程度である。調べ続ければ納得できる何かが得られるのかもしれない。
しかし、それでもなお説明のつかないものが残るのなら、あの指先の感触について改めて考えてみようと思う。




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【私的考察シリーズ⑩】言葉にする力

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私は語彙力のない子供だった。

読書が趣味だったので書物に出てくる言葉を知ってはいても、実用例を知らなかったと言える。
自分の行動に起因する感情について、当てはまる言葉を知らなかったのだ。

あの頃の自分を理解し、弁護するために、また、その感情を私に齎した周囲の人たちを理解するために、私は今も言葉を探し続けている。

言葉は感情や行動に分類を与えるツールと言えるかもしれない。

乳幼児は泣く。 空腹なのか、不安なのか、不快なのか、眠いのか。
記憶が無いので断言はできないが、本人にも分からないのかもしれない。
大人はその泣き声に、
「お腹が空いたのかな」
「眠いんだね」
「痛かったんだね」
などと、推察した後にとる行動を決めるために意味を付けようとする。
人は生まれた瞬間から自分以外の誰かによって、その行動に名前を付けられていく。

例えば大人の意に添わないことを子供がした場合、大人は詰問するだろう。
「なぜ、そんなことをしたのか」と。

子供は自分の行動の起因に付ける言葉をあまり知らない。
だから答える。
「なんとなく」と。
または「わからない」「しらない」と。
大人はそれらのあやふやな言葉に納得できない。
子供であった時代を忘れ、大人が持つ語彙力で判断する。
「なんとなくではない、理由があるはずだ」と。

大人は子供を叱る方向性を、子供の答えから考えようとしている。
しかし、子供は自分の感情や思考に名前を付けるのが得意ではない。
ここにお互いの不幸がある。

大人になって思うことがある。
語彙力の無い子供のために、大人が一緒に考えてみるのはどうだろうか。
イライラしている時にこれができる大人が居るのかは別として、子供にとっては救いになるだろう。

子供は大人が指示することが嫌だと思っても「なぜ嫌なのか」という理由を述べられない。
「嫌だから嫌なのだ」というのは、子供にとって十分に完結した理由だ。

しかし、大人は「理由になっていない」とそれを却下し、代わりに別の、大人にとって都合の良い名前を貼り付ける。「わがまま」「怠け者」「ずるいやつ」「頭が悪い」「根性が悪い」などと。
そうして貼られたラベルを、子供は「これが自分の正体なのだ」と受け入れてしまう。 少なくとも私は、その言葉の一部を自分の正体だと思い込んでいた。そこに存在したはずの、もっと繊細で、もっと別の、名前のない感情は、大人が分類した粗雑な言葉によって上書きされ、消えていく。

かつての私がそうだったように、子供が「なんとなく」という言葉を使う時、その胸の内には、言葉にならないモヤモヤした複雑な感情が渦巻いている。言葉という絵の具をまだ数色しか持たない子供に、夕暮れの空の複雑な色合いを説明しろと言う方が酷なのだ。

だからこそ、大人が発する言葉は子供を追い詰めるための武器ではなく、彼らの心に寄り添うための「パレット」であってほしいと思う。
「不公平だと思ったのかな」「それで悲しい思いをしたんだね」「どうしていいか分からなくなったのかな」などの差し出されたいくつかの言葉の中から、子供が自分の感情を当てはめることができたのならば、子供は言葉を覚えるし、覚えた言葉で自分を表現できるようになるかもしれない。

言葉を紡いで自分を表現できなかった子供時代の不安定さを今も思い出す。大人に抗いたい子供こそ、本を読んで語彙力を広つけるべきだと思う。
世の中の理不尽さに対抗する第一歩は語彙力である。語彙力があれば、知識は自然についてくる。

暴言や壁を叩くといった「粗暴な行動」に逃げざるを得ない子供がいる。語彙力がない子供の反抗は、どうしても肉体的で粗暴なものになりがちだ。
大声を出す、物に当たる、あるいは完全に心を閉ざして黙り込む。
それらは決して「乱暴な子」だからではなく、胸の中の巨大な熱量を外に出せずにもがいている姿なのだ。
もしも、「私が怒っているのは、あなたの言い方に尊厳を傷つけられたからだ」と言語化できるならば、その時点でモヤモヤした感情は消化できるかもしれない。

言葉を知ることは、自分を守る武器を手に入れることだ。
理不尽な大人や、通り一遍のラベルを貼ろうとする社会に対して、「違います。私の気持ちはそんな雑な言葉では表せません」と言い返すための盾なのだ。
語彙力を得ることは、他者からの精神的侵略を防ぐ、静かで強力な抵抗力を持つことなのだと思う。

私は今も、水に落とした墨汁のように複雑で、名前を付けられずにいるあの頃の感情を覚えている。
そして、粗雑な言葉で分類された事実を抱えて立ち尽くしている自分を救いたいとも思っている。

今の私は、ほどほどに自分の感情を表す言葉を集められたと思う。だが、まだまだ不足しているため、感情と言葉が合致しないこともある。
相手を傷つける言葉を知ってはいるが、それを使わないために沈黙することを覚えた。そして、沈黙は年々増えている。「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉を脳裏で繰り返し唱えながら、黙り続けることもある。
かつて子供だった頃の沈黙は、言葉を持たないがゆえの「無力な諦め」だった。 しかし、大人になった今の沈黙は少し違う。 相手を容赦なく切り刻めるだけの言葉の刃を、あえて鞘に収めるための「意志のある選択」だ。
語彙が増えるということは、自分を守る盾を手に入れると同時に、他者を傷つける武器の扱い方を覚えることでもあるのだと思う。

それでも、いまだに言葉にならないモヤモヤした感情が波打つこともある。
今の私でさえそうなのだから、あの頃の私が言語化できず、よくわからない感情の霧の中に立ち尽くしていたのも当然だとも思える。

私の語彙力は、まだ発展途上である。
感情とぴったり重なるピースが見つからなくて、もどかしく感じることも多々ある。

だからこそ私は、今日も本を開く。

自分のなかに湧き上がる名付けようのない感情にふさわしい名前を与えるために。




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【私的考察シリーズ⑨】空間にある物語を読む

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竹節欄間をご存知だろうか。

AI(Gemini)に問うと以下の内容が出される。

「竹節欄間(たけふしらんま / たけのふしらんま)は、日本の伝統的な建築様式(特に数寄屋造りや茶室など)に見られる、意匠を凝らした欄間の一種です。天井と鴨居の間の開口部に設けられ、採光や通風を保ちつつ、部屋を格調高く、または風流に演出する役割を持っています。」

内容が浅いので、再度深堀りするよう依頼する。

「本物の竹は、乾燥すると割れたり、時間が経つと色あせて黄色や茶色に変色してしまいます。また、一本ずつ太さや曲がり具合が違うため、精密な建具の中にきれいに並べるのが実はとても難しいのです。そこで職人たちは、「割れにくく、経年変化が美しい高級な杉(秋田杉や吉野杉など)」を使い、カンナやノミを使って手作業で「竹の節」を削り出しました。
竹節欄間は、部屋を広く、天井を高く見せるための視覚マジックとしても計算されています。」

まだまだ内容が浅いので、その旨を伝えてみた。

三度目に出された内容を要約すると以下の通りとなる。

「竹節欄間とは、単なる意匠的建具ではなく、書院造の権威主義に対する数寄屋の思想的抵抗、木という異素材から自然の本質を削り出す高度な「見立て」の精神性、そして薄暗い和室において光と影のグラデーションを制御する結界としての機能を併せ持った、日本建築思想の到達点です。」

この、三度目に出された「結界」という単語が竹節欄間の肝である。

しかしAIの修正文は以下の内容だった。

「竹節欄間が用いられるのは、桂離宮や京都の歴史ある高級料亭、あるいは格式高い本物の茶室といった、俗世から切り離された「非日常の空間」です。」

そうではない。

高級料亭でも、茶室でも使われることは無いはずだ。

竹節欄間は、鎌倉時代に中国の宋から、禅宗の伝来とともに移入された建築様式禅宗様に源流を持つ。 当時の中国寺院で窓の竪子や建具の親柱に施されていた竹の節状の装飾技法が日本へ伝わり、江戸初期の大工技術書『匠明』によって、書院造における設計基準として体系化される。本物の竹は割れやすく耐久性に欠けるため、頑丈な杉や檜の銘木を使い、職人が手作業で「竹の節」を削り出す手法が定着。これが禅宗以外の寺社や城郭、そして屋敷の「御座所」や「客殿の間仕切り」といった最上級の空間へ組み込まれていった。

竹節欄間は、古代から邪気を払い神霊が宿る媒介(依代)とされる竹の象徴性を木に写し取り、小さな筋交い(×印)による堅牢な構造補強を兼ね備えることで、高貴な主人の領域や公的な空間の質を峻別し、人の身分や序列を明確に可視化する、政治的・社会的な「結界装置」としての本質を持つものである。

私は毎度、竹節欄間を見ると背筋が伸びる気がする。
自分が「こちら」と「あちら」の境目に立っているのだと感じるからだ。
粗雑なふるまいで敷居を跨いではいけないという気持ちにもなる。

文字情報としてルールが書かれているわけではないが、竹節欄間という造作にはルールが込められている。禅宗がその建築様式を持ち込んだならば、時の権力者はそこにどんな利点を見出したのか。

権力者に最も刺さったのは、禅宗建築が持っていた「空間を徹底的に区分けし、機能ごとに絶対的な格付けを行う」という空間構築思想である。江戸幕府の統治では根幹に身分制度(序列)の徹底があり、それを一目で分からせる装置が必要だったのだろう。
江戸初期の大工技術書『匠明』のように、建築の寸法や意匠に厳格な決まり事が登場し、そこに竹節欄間のような結界装置が組み込まれた結果、建物内における人間の行動や社会の流れは変わったことだろう。

それまでの曖昧だった部屋の境界に、明確な設計基準に基づいた竹節欄間がはめ込まれることで、屋敷内を移動する家臣や使用人の行動に変化が起こる。
竹節欄間が見えた時点で「御座所(あるいは御成間)という聖域があるから進んではならない」、あるいは「ここからは姿勢を正して近づかねばならない」と考えて足が止まる、あるいは平伏するようになる。
近くに警護の者を置かずとも、その空間の格付け自体が『通行規制』として人の動きを心理的に制御することになるのだ。

竹節欄間で囲まれている内部とは、すなわち主君(あるいは主君が迎える皇族や藩主)の身体がある空間そのもの。封建社会において、主君の身体に近づくことができる人間は厳しく制限されており、身分の低い配下や一般の家臣がその空間の境界をまたぐことは、主君の暗殺や不敬を防ぐという保護の観点から許されないことであった。これにより、会談や拝謁の席での発言や態度は、主君に絶対服従する形へと整えられていく。

こうして人はその空間、すなわち竹節欄間という結界の前に立つだけで、自分の身分を自覚し、行動を制約されるようになったのではないだろうか。
私が知る限りでは、竹節欄間にはそんな話が隠されている。

ルールはその時代の「力ある者」たちが作る。
建築物にその思想が取り入れられることもある。
ここでは述べないが、わかり易いのは茶室での作法だろうか。

さて、現代では竹節欄間を見てもその先へ進んではいけないと思う人はほとんどいない。
理由を知らないからだ。

現代住宅では和室を造らない人が増えているという。
和室が減るということは、畳や襖の需要も減るということで、現在では国産畳の製造業者はかなり消えてしまった。(ほとんどが中国産の畳となっている)
昭和世代は畳の上を歩く作法を教わっていると思うが、現代の子供たちはどうだろう?
「敷居や畳の縁は絶対に踏まない」、「素足で歩かない」、「すり足で静かに歩く」などを昭和時代の子供たちは和室に接する際に教わっている。

作法には意味がある。
「敷居や畳の縁は絶対に踏まない」理由は、敷居を踏むと木が歪んで襖や障子の建て付けが悪くなるからという建物への配慮。
「素足で歩かない」理由は、畳表に足の裏の汗や皮脂汚れが付着するのを防ぐためである。
「すり足で静かに歩く」理由は、畳の目を傷つけないため、そして周囲にいる人に威圧感や不快感を与えないためである。
武士の時代であれば、ドタバタと音を立てて歩いたり、急に斜めに動いたりする者がいれば、それは切りかかる体制だとみなされ、即座に組み伏せられても文句は言えない行動と受け取られたという。

私は文化財建造物を見るのが好きだ。
複数の文化財建造物を見続けていると気付くことがある。
施主の美学と生きる環境、当時の流行、そして産業と流通が学べるということである。

ぼーっと見ていればそれはただの「家」なのだが、建物を取り巻く時代の情報のようなものを知ると、それは「時代を詰め込んだタイムカプセル」になる。
使用している木材の樹種、門で分かる職業、庭に置かれた遠方の石、舶来物のインテリアなど、財を成した人が建物のどこにお金を掛けたのかが見えるのだ。その最たる例が、今とは違う住宅思想で作られた「客間」である。そこは客に見せるための部屋として、自分たちが生活する間よりもはるかに贅沢に造られているのだ。

文字なきルールを空間に刻み、人間の身体や行動までをコントロールしようとした先人たち。
屋根瓦ひとつ、あるいはそこにひっそりと乗る苔の佇まいにさえ、固有のストーリーが眠っている。
大工仕事の技、畳の敷き方や、天井の竿縁の向きなどの規定、施主のこだわり。
見どころを挙げればきりがない。
しかし、それらは誰かが言葉にして残さなければ、やがて失われてしまう。

竹節欄間は残り、結界は消える。

理由を書き残す人がいなくなったとき、本当に失われるのは建物ではなく、結界なのだろう。

私は、文化財建築を訪れるたび、タイムカプセルの蓋を開けるような気持ちになる。
建物だけではなく、人の振る舞い、空気、流れ。
そして「あちら」と「こちら」を隔てていた目に見えない境界が、まだ静かに息づいているような気がするのだ。

どこかの古い建物を見学する機会があれば、ぜひ欄間の形状に目を向けて欲しい。もしそこに竹節欄間があるのなら、そこには文字情報としては書かれることのない「結界」が存在する。
そこは、身分の垣根が低くなった現代で、過去のルールが静かに息づいている場所なのである。




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【私的考察シリーズ⑧】勾玉(まがたま)の孔の向こう側

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子供の頃、勾玉(まがたま)を見る基準は単純だった。「欲しいか、欲しくないか」である。
そして私にとって勾玉は、「欲しいもの」ではなかった。
博物館で見ても、「古代の装身具」という程度の印象しかなく、特別な興味を持つこともなかった。

ところが、勾玉について少し立ち止まって考えてみると、疑問が次々と湧いてくる。

勾玉は、考古学において「縄文時代から古墳時代にかけて見られる、頭部が大きく尾部が細く湾曲した、孔(あな)のある特異な形状の石製装身具」と定義される。

縄文時代前期(約6000〜5000年前)にはすでに初期の勾玉が現れており、中期から晩期にかけて新潟県糸魚川周辺を産地とするヒスイ(硬玉)の勾玉が作られ始める。その後、勾玉は日本各地へと流通していく。古代のヒスイの勾玉はほぼ100%糸魚川産であると、現時点ではそう考えられているらしい。

そう! 縄文時代には既に日本各地に「流通」しているのだ!

弥生時代になって階級社会が成立し始めると、勾玉は単なる装飾品から権力者や祭祀者が持つ威信財(いしんざい:権威を示すための財宝)としての性格を強める。この時代の勾玉には、朝鮮半島南部との交易によりガラス製の勾玉なども登場する。

古墳時代には、古墳の副葬品として大量に出土するようになる。特に古墳時代中期には「子持勾玉(こもちまがたま)」と呼ばれる、大きめの勾玉の表面にさらに小さな勾玉が突き出た特殊な祭祀具も登場する。

しかし、仏教が伝来する6世紀後半から、律令制の導入期である7世紀にかけて急速に作られなくなり、歴史の表舞台から徐々に姿を消すことになった。

勾玉は、最も格式高い素材であるヒスイ(硬玉)のほか、碧玉(へきぎょく)、瑪瑙(めのう)、琥珀(こはく)、滑石(かっせき)などが使われている。

ヒスイの産地は新潟県糸魚川(いといがわ)流域に限られており、ここで加工されたヒスイ製の勾玉は、北海道から九州、さらには朝鮮半島南部からも出土しており、縄文・弥生時代にすでに海上を含んだ広範囲で高度な流通網があったことを示している。糸魚川で採れた、あるいは一次加工されたヒスイが西日本へ集められ、そこから朝鮮半島へと輸出されていたのだ。

「流通」は、古墳時代には海を越えるのである。

そもそも、勾玉の形にも疑問が湧く。
逆「C」の字のような独特な形(頭部が大きく、尾が丸まって尖る)をしているが、その由来については現在も決定的な定説はない。

考古学・民俗学の観点では、

  • 動物の牙・爪を模倣したことが最も古い起源であるとする説
  • 縄文人が狩猟対象の牙に孔を開けてペンダントにしていたものが、やがて石を削って形を整える過程で定型化したという説
  • 湾曲した形が胎児の姿に似ていることから、生命の誕生、再生、不老不死を祈る呪術的な意味が込められていたとする説
  • 月の満ち欠け(特に生命の復活や時間の経過を象徴する三日月)を神格化し、その力を身に宿そうとしたとする説
  • 水中に生きる魚の形、あるいは人間の魂(たましい)が体から抜け出たときの形(火の玉のようなイメージ)を表しているという説

という仮説が提示されているという。

この形が造られた当初の意味としては、個人的にはどの説もしっくりこない。
形に宿す意味は時代ごとに異なる可能性もあるが、あえて推すなら「月の満ち欠け」か。

形の意味はさておき、硬いヒスイを削って整形する技術にも疑問が湧く。

勾玉が他の石器と決定的に異なるのは、頭部に孔(あな)が開けられている点である。
石を削るだけなら打製石器にも見られるし、磨いて仕上げるなら磨製石器もある。
しかし、極めて硬いヒスイに正確に孔を開け、それを装身具として身に着けられるようにするのは全く別次元の技術だったのではないだろうか。
勾玉の価値は、形だけではなく「孔を開ける技術」そのものにもあるように思える。

極めて硬く頑丈なヒスイを加工する技術は、今からおよそ5500年前(縄文時代中期)に完成したらしい。ヒスイと同じく糸魚川周辺で採れる石英(硬度7でヒスイよりわずかに硬い)を細かく砕いた「石の粉」をヒスイを削るのに用いたという説がある。石の粉を水と混ぜて泥状にし、石や木、あるいは弓の弦(紐)に塗す(まぶす)ことで、ヤスリのようにしてヒスイを少しずつ擦り切りしたり、表面を鏡面のように磨き上げたりしていたとされる。
糸魚川市にある長者ケ原遺跡からは、大量のヒスイの割れクズ、加工途中の未製品、そして加工用の砥石が出土している。これにより、この時期にヒスイを思い通りの形にし、きれいに孔(あな)を開けてピカピカに磨き上げる一連の技術が確立されていたことが判明したという。

勾玉は、およそ3,000年以上にわたって作られ続けている。
これほど長い年月を経ても、基本的な形はほとんど変わらず、各地から出土する勾玉には共通した「勾玉らしさ」がある。 私には、この形は幾世代もの試行錯誤を経て選び残された、一つの完成形だったのではないかと思える。
形の由来は今なお分からない。しかし、3,000年以上という長い時間のなかで、その形に託される意味は少しずつ変化していったのではないだろうか。
作られ、使われ続けたことは変わらなくても、「なぜ使うのか」という理由は、時代ごとに変わっていったのかもしれない。

さて、続けて疑問が湧くのは加工技術だ。

職人集団は、いつ形成されたのだろう。

石を見つけ、石を選ぶ。石を削り、失敗すればすべてが無になる孔を開け、磨く。これに携わる人を仮に「職人」と呼ぶなら、こうした技術を身に付けた人が、狩猟や農耕と並行しながら継続して加工を続けるのは容易ではないように思える。やがてコミュニティーの中で役割分担が生まれ、玉作りを専門に担う人々が現れたとしても不思議ではない。
一人の職人の活動期間は長くはない。仮に一世代を25年とすると、3,000年間では約120世代になる。一つの知識体系が、120世代にわたって受け継がれたことになるのだ。そう考えると、勾玉は「知識の継承を可視化した遺物」と言えるのではないだろうか。

では、現代にも同じようなものはあるのだろうか。

勾玉のように3,000年以上前から現在に至るまで基本的に同じ用途・デザイン・技法を継承し、日本列島で作り続けられているもの。それは、漆椀(漆器のお椀)、櫛(くし)、箸(発祥は中国)、畳(の原型)である。
漆椀については3,000年どころか約9,000年前(縄文時代早期)から続くものではあるのだが。

たとえば櫛は、日々使っていても、それ以外の形状が思い浮かばないほど完成された形になっている。
そもそも形について疑問に思ったこともない。
この「当たり前の形状」という感覚が、勾玉にもあったのではないだろうか。

また、はじめは身分の高い者しか持てなかったという点では、漆椀が似ている。
縄文時代に始まった漆器は、長く特権階級の富の象徴だった。しかし江戸時代、庶民は「ハレの日」の冠婚葬祭用に村全体でお椀を共有する仕組みや、柿渋などの身近な素材を混ぜた安価で頑丈な「実用漆器」の技術を各地で開発する。各藩による地場産業としての奨励も後押しとなり、それまで高嶺の花だった漆器は、誰もが日常的に使える身近な生活用品へと生まれ変わった。

縄文・弥生時代を通じてエリート層の威信財だった勾玉は、古墳時代の中期から後期にかけて大きな転機を迎える。それまでの希少なヒスイに代わり、軟らかく加工しやすい滑石(かっせき)を素材に用いることで、大量生産が可能となる。これにより勾玉は身分証としての役目を超えて、集落の祭りや儀式などで大量に消費される一般庶民の身近なアイテムへと広がっていった。

双方に共通するのは、大量生産・大量消費で、誰もが当たり前に使えるようになること。
櫛や畳、日本でも使われる箸なども、一般に普及してこそ今なお使われ続けるものとなっている。

万民に普及し、当たり前の存在として使われ続けることが、「文化の連続性」を生むのかもしれない。

しかし、それは永遠ではない。
例えば、栄養摂取が液体中心になれば箸や椀は不要になるかもしれない。頭髪を保つことが一般的でなくなれば櫛は使われなくなる。寺院建築そのものが姿を消せば、畳も今とは違う存在になるだろう。
つまり、道具が消えるのではない。道具を必要とする生活そのものが消えるのである。
そのとき、「文化の連続性」もまた終わりを迎えるのかもしれない。

ここまで考えて気づいたのだが、数千年前の人々が使っていた日用品の形や技法が、大きく姿を変えることなく現代の一般家庭まで地続きで受け継がれている国は、世界を見渡しても決して多くはないように思える。
思い浮かぶのは世界各地に残る石臼くらいであるが、ほかにも例はあるのだろうか。

さて、勾玉は古墳の終わりとともに人々の日常からは姿を消し、現代では「神と天皇の領域」にだけ残る特別な存在になった。しかし、その領域にだけ今日まで受け継がれてきたということは、あの形そのものに、よほど強い意味があるのだろう。

私には勾玉が何を模し、何を意味するのかは分からない。
だが、知りたいとは思う。

今後も私は博物館で勾玉を見るたびに、その形を眺めながら考え続けるだろう。
三日月なのか、あるいは……




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【私的考察シリーズ⑦】玉(ギョク)とはなにか

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私は、直径八センチと十二センチほどの、石の玉を二つ持っている。
石の種類はわからないが、一方は青黒く、もう一方は柔らかな乳白色をしている。

青い石の入手先は記憶が朧気だが、おそらく東京の骨董店で購入したものだろう。一方、乳白色の石の入手先は記憶が鮮明で、二十年ほど前に太宰府天満宮の骨董市で買い求めたものだ。数ある古物のなかで、そこだけが不思議と光って見え、強く魅了されたのを覚えている。石に触れるとひんやりと滑らかで、掌にとても心地よい。当時の私の薄給で買えたのだから、価格はせいぜい千円程度だったはずだ。購入後、すぐに手水舎の水できれいに洗い、丁寧にタオルにくるんで東京まで持ち帰った。ずっしりと、心地よい重さだった。

これらは、ただそこらに転がっている路傍の石とは違う。人の手によって歪みなく、きれいに丸く整形されているからこそ、私はこれらを価値ある宝物として、今も寝所に大切に置いている。

石をきれいに整形して価値を与える文化は、古代から日本や中国に存在する。、古代から日本や中国に存在する。古代の日本や中国には、特別な価値を持つ玉(ギョク)という概念があった。
この場合の玉とは、形ではなく素材に重きを置いた言葉で、古代日本において価値ある美石で神秘的な色合いを持つ硬玉(ヒスイ;ジェダイト)や、中国で古くから神聖視された軟玉(ネフライト)を指している。

ちなみに、縄文時代の中期(約5,000年前)にはすでにヒスイの加工が始まっており、これは世界最古の硬玉(ヒスイ;ジェダイト)文化とされている。

ただし、日本語には球体を意味する「玉(たま)」という言葉もある。
水晶やアメジストなどを丸く削ったものを「丸玉」と呼ぶことがあるが、これはあくまで「丸い形状」を表すための便宜上の表現に過ぎず、ただの岩石を丸く削ったとしても、伝統的な意味での玉とは呼ばない。「玉に瑕(きず)」や「泥中の玉」ということわざに登場する「玉」は丸い球のことではなく、「磨き上げられた極上の宝石」そのものを指している。

つまり、文化や歴史における本質的な玉とは、加工後の形状だけを指すものではない。それは、古来より人々を魅了し、徳の象徴とされてきたヒスイやネフライトをはじめとする、特定の美しい石そのものを指しているのである。

そうした学術的な定義から見れば、私の寝所にある二つの石は、ただの「丸い石」に過ぎない。しかし、二十年前に骨董市で私を魅了したあの輝きは、古代の人々が玉に見出した美と、どこかで繋がっているような気がしてならない。

現代であれば、多くの人はダイヤモンドの輝きや金の輝きに絶対的な価値を見いだす。その価値は、希少性や市場価格、あるいは鑑別書という明確な「記号」によって客観的に決められている。
しかし、まだそのような経済的な評価基準が存在しなかった古代の人々はどうだったのだろうか。

彼らを突き動かしたのは理屈ではなく、ただ「美しい」という、より根源的で圧倒的な直感であったはずだ。私が骨董市で千円の石に理屈抜きで魅了されたように、古代の人々もまた、自らの直感だけを頼りに石を選んだのではないか。河原や山肌に転がる無数の岩石のなかから、不思議と目を引くわずかな美石を見つけ出し、現代のような便利な工具もない時代に、気の遠くなるような時間をかけて、ただ手作業でその石を磨き上げる。そこにあったのは、ただ手元に置き、触れ、眺めていたいという、純粋な美への憧れと情熱に他ならなかったのではないだろうか。

しかし、美しい石は他にもあったはずなのに、なぜ数ある石の中から、日本では硬玉(ヒスイ)が、中国では軟玉(ネフライト)が、他を排して特別な存在になったのだろう。

その答えを導くために、これらが他の石とどう違うのかを確認しておきたい。

たとえば、美石の代表格である水晶は衝撃を与えると比較的容易に割れてしまう脆さがある。また、古くから装飾品に使われた瑪瑙(めのう)も細かな細工を施す際にはどうしても角が欠けやすい。ダイヤモンドは硬いが、ある特定の方向からの衝撃には弱い性質(劈開性)を持つ。

一方で、ヒスイやネフライトは違う。これらは微細な結晶が網の目のように複雑に絡み合ってできているため、地球上の鉱物のなかでもトップクラスに割れにくい(靭性が高い)。
ヒスイやネフライトは、水晶より頑丈で、瑪瑙よりも加工した後に欠けにくいのだ。

さて、古代中国では遥か西方で産する軟玉(ネフライト)が長い交易路を経て中原へもたらされていた。一方、日本には世界でも極めて稀な硬玉(ヒスイ)の大産地が現在の新潟県糸魚川にあった。
中国にとっての玉は遠方からもたらされる貴い石であり、日本にとっての玉は列島の大地そのものが差し出した稀有な石だった。互いの存在を知らぬまま、人々はそれぞれの土地で最も優れた石に出会い、それを磨き、意味を与え、特別な存在へと育て上げたのである。

現代の鉱物学において、軟玉と硬玉は全く別の鉱物として分類される。日本ではその双方を同じ「翡翠(ひすい)」という名で呼び、古くから混同、あるいは一括りにされてきた歴史があるが、厳密には結晶の構造も成分も異なる。なお、硬玉の方が軟玉よりもモース硬度の数値が大きい。
しかし、その科学的な違いにもかかわらず、日本の人々も中国の人々も、それぞれの石に「割れにくさ」と「美しさ」という共通した価値を見出し、最高峰の玉として尊んだ。
一度手に入れた玉は何世代にもわたって受け継がれ、ときには墓へ納められるほど特別な存在となっている。何十年、何百年という時間を経ても、その艶や手触りが失われにくい玉は、それゆえに人の一生を超えて想いを託す器、または受け継ぐ財産になり得たのだろう。同時にそれは、単なる物質的な富に留まらない、目に見えない何かをも宿していたはずだ。考古学的知見によれば、玉は権威の象徴であり、霊力や呪力を秘めた守護の具でもあったとされる。

しかしそれ以上に惹かれるのは、墓の副葬品となった玉についての、ある仮説だ。
ヒスイの模様は一つとして同じものがなく、加工が極めて難しいからこそ、容易に複製品を作ることもできない。肉体が滅びゆく中で、決して土に還ることのない不変の玉は、あの世へ旅立つ死者の「その人をその人たらしめるもの」――すなわち魂の唯一無二の目印として、棺へ共に納められたのかもしれない。

手のひらに吸い付き、ひんやりとして滑らかな玉。磨き上げるほどに内側から滲み出る、湿り気を帯びたような艶。硬いのに、どこか温かみを感じさせるその二面性こそが、富や権威、あるいは生死の境界すら超えて、古の人々に「大切なものを託したい」と思わせた理由だったのではないだろうか。

私の寝所にある二つの石は、先述の通り、定義の上ではただの「丸い石」に過ぎない。それでも、二十年前に私を魅了したあの輝きと、いま掌に伝わる滑らかな冷たさは、古の人々が石を拾い、磨き、そこに自らの大切なものを託した、その心の震えと確かにどこかで繋がっているのではないかと考えている。




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長野県長野市『松代象山地下壕』をひとりで歩く。(ちょっと長くなります)

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松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期に軍部が本土決戦に備えて極秘に建設した巨大な地下壕群。

国家中枢や皇室、政府機関の移転が計画され、延べ約75万人の労働者が動員されました。

松代大本営跡は計3箇所の大地下壕群の総称で、現在は「松代象山地下壕」の一部(約500m)が無料公開されています。


【私的考察シリーズ風】


第二次世界大戦末期、長野県松代に建設された「松代大本営地下壕」。

太平洋戦争の戦局は急速に悪化し、1944年(昭和19年)7月にサイパン島が陥落すると、アメリカ軍のB-29爆撃機が日本本土を直接攻撃可能になった。東京への大規模な空襲が現実味を帯びたことで、大本営や政府機関、通信施設、さらに天皇の御座所を内陸へ移す構想が具体化する。

候補地の調査は長野県内で行われたが、松代以外にどの地域が正式な候補として比較されたのかは、公開資料では明確ではない。
1944年5月ごろ、陸軍の井田少佐らが信州で適地を探し、松代付近を移転先として報告した。その後、松代を中心に、象山・舞鶴山・皆神山の三地区、さらに須坂方面や善光寺周辺などへ関連施設を分散配置する計画が進められた。

着工は1944年11月11日。
終戦の1945年8月15日まで、およそ9か月という異例の短期間で工事が続けられた。
この間、工事は昼夜二交替制で進められた。ダイナマイトで岩盤を破砕し、人力とトロッコで岩石を搬出するという、現在から見れば極めて原始的な工法である。それでもわずか約9か月で、総延長約10kmに及ぶ地下壕計画の約75~80%が完成したとされる。計画そのものが、いかに国家の最優先事項であったかを物語っている。

地下壕は一か所ではなく、三つの山に分散して建設されている。
最も規模が大きいのが象山地区(イ号倉庫)である。
この「イ号倉庫」という名称は、軍が計画を秘匿するために付けた符号だった。
実際にここに入る予定だったのは、政府各省の主要部、日本放送協会(NHK)の海外局、中央電話局などの行政・通信機能だった。計画延長は約7.5km、終戦時には約5.9kmが掘削され、約80%まで完成していたとされている。現在一般公開されている地下壕は、この象山地下壕の一部約500mである。

一方、舞鶴山地区(ロ号倉庫)には、大本営参謀本部と天皇・皇后の御座所、宮内省を置く中枢施設として計画された。地下壕の延長は約2.6kmで、終戦時には約90%まで完成。現在も地下壕の大部分は気象庁松代地震観測所として利用されており、極めて安定した岩盤環境を生かした世界有数の地震観測施設となっている。

皆神山地区(ハ号倉庫)は、当初は大本営や御座所の候補地だったが地質条件が適さないことから食糧や物資を保管する巨大な備蓄庫へと計画が変更された。総延長は約1.9km。終戦時にはほぼ掘削は完了していた。現在は崩落の危険があるため非公開となっている。

さらに、この三地区以外にも、善光寺周辺や須坂方面には送受信施設や印刷局などを配置する「ニ号」「ホ号」「ヘ号」「ト号」「チ号」「リ号」などの関連施設が計画されていた。つまり松代大本営とは、単なる地下壕ではなく、一つの「地下都市」を建設する計画であった。

松代が選ばれた理由の一つが、堅固な岩盤である。
象山地下壕の壁面には、安山岩質のひん岩(玢岩)が広く分布すると考えられている。ひん岩は地下浅部でゆっくり冷え固まった火成岩で、現在の分類では安山岩質岩脈として扱われることが多い。圧縮強度は100~250MPa程度に達することもあり、花崗岩に匹敵するほど硬い岩石である。局所的には凝灰角礫岩や凝灰岩も分布すると考えられるが、公開区間の大部分は非常に緻密で硬い安山岩質岩盤で構成されているとみられる。
この岩盤の存在が、地下壕を素掘りのままで維持できた理由でもある。
公開区間ではコンクリートで覆われた部分はごく一部で、大半は80年以上経った現在でも岩肌がそのまま露出している。崩落が少なく、気象庁が戦後に地下壕を地震観測施設として転用したことも、この岩盤の安定性を裏付けている。

一方で、この硬い岩盤は工事を難しいものにした。
現在のトンネル工事のような大型掘削機械は存在せず、削岩機で穴を開け、ダイナマイトで発破し、砕けた岩石を人力で搬出するしか方法はなかった。坑道内は照明も限られ、粉じん、騒音、振動の中での重労働が続いた。

工事には延べ約300万人が従事したとされる。 資料では、日本人男性労働者、朝鮮半島出身の男性労働者、建設会社(西松組・鹿島組など)の作業員、勤労動員された男性が主体だったことが確認でき、実際に現場で働いた朝鮮半島出身者は約6,000~7,000人と推定されている。

一方、地域住民や女性も炊事や飯場の運営、勤労奉仕などの形で工事を支えた。戦時中には女子挺身隊が防空壕掘削などの土木作業に従事した例は全国にあるが、松代大本営地下壕については、掘削作業を女性が担ったことを示す資料は、現在確認されていない。

工事中には事故や病気、栄養失調などで亡くなった人も少なくないと考えられている。犠牲者数についても確定した記録は存在しないが、研究者の間では100~200人程度と推定されることが多い。

地下壕内には現在のような空調設備はない。それでも年間を通して約15℃前後という一定した温度が保たれている。厚い岩盤そのものが巨大な蓄熱体となり、外気の影響をほとんど受けないためである。換気は坑口や立坑を通じた自然換気が基本で、現在も自然な空気の流れによって壕内の環境が保たれている。そのため現在でも壕内の空気は比較的よどまず、一方で湿度は高く、岩盤から染み出した地下水が壁面や天井を伝い、水滴となって落ちる場所がある。

現在一般公開されている入口は、象山地下壕の西条(恵明寺)口である。
一方、舞鶴山地下壕は現在の気象庁松代地震観測所付近、皆神山地下壕は皆神山麓から掘削が開始された。いずれも山の内部を碁盤目状に掘り進め、20m間隔で縦横の坑道を交差させる計画であった。

終戦の日まで掘削は続けられたものの、この巨大地下都市が本来の目的で使われることは一度もなかった。

終戦後、アメリカ軍は松代大本営を「日本帝国政府秘密司令部(Secret Imperial Headquarters)」とみなし、現地調査を実施。地下壕の規模や用途、完成度などを記録し、軍事施設としてどう処分すべきかを検討している。

現在見つかっているGHQ文書では、松代の地下司令部は「Destroy(破壊せよ)」という処分勧告が記されている。

しかし、この「Destroy」という指示が実際には徹底して実行された形跡はない。

1947年(昭和22年)、中央気象台(現在の気象庁)が舞鶴山地下壕に地震観測施設を設置する。その後、1965年頃の松代群発地震を契機に観測設備が大幅に強化され、現在も世界有数の地震観測拠点として利用されている。 地下壕の概要は資料から分かる。しかし、実際に人が生活することを考えると、いくつか気になる点がある。
地下壕から出た膨大な岩石(ズリ)は、どこへ運ばれたのだろうか。
1947年に米軍が撮影した航空写真には、象山では坑口のある清野側、舞鶴山では開善寺経蔵付近、皆神山では坑口付近に、白いズリ山がはっきり写っているという。 戦後、その多くは東京へ運ばれ、道路工事の敷石などとして再利用されたという。

地下空間では、花崗岩などから発生するラドンが問題になることがあるが、松代大本営でラドン濃度が問題になったという記録は見つからない。また、長年にわたり気象庁の地震観測施設として利用されているが、岩盤自体の健康被害が問題になったという報告も確認されていない。

「地下都市」として機能させるなら、人が生活するためのインフラが必要になる。掘削計画や配置図は多く残っているが、生活インフラの詳細はあまり残っていないという。 上水についてだが、何千人も生活するなら、飲料水だけでも一日に数十トン必要になるが、どこから給水する計画だったかを示す詳細な配管図は見つかっていないらしい。 排水については、地下壕の床面に緩い勾配が付けられており、自然排水できるよう掘られていたと考えられる。実際に歩いてみると、床の片側に水が流れている場所がある。

地下壕で多くの人が活動するためには、空気の循環も欠かせない。現在確認できる資料からは、坑口や立坑を利用した自然換気が基本であったことが分かっている。一方で、大本営や政府機関など数千人規模の利用を想定した場合に、どの程度の換気能力を見込んでいたのかを示す詳細な設計資料は確認されていない。現在公開されている地下壕でも、空気のよどみは比較的少なく、年間を通して約15℃前後の温度が保たれている。これは厚い岩盤が外気の影響を受けにくく、坑口などを通じて自然に空気が循環しているためと考えられている。

松代大本営は完成すれば、本当に数千人が生活できる地下都市として機能したのだろうか。

掘削計画は数多く残されている一方、生活インフラに関する資料は限られている。
そのため、この問いにはいまも明確な答えが出ていない。


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たぶんあの山のあたりではないかと推察。

場所ごとの名前と役割は以下の通り。


  • 舞鶴山地下壕(まいづるやまちかごう):天皇御座所や大本営陸軍部が置かれる予定だった中心地。現在は「気象庁松代地震観測所」として現役で利用されているため、内部の一般見学はできない。
  • 皆神山地下壕(みなかみやまちかごう):日本政府の各省庁が予定されていた壕で、現在は閉鎖されている。
  • 松代象山地下壕(まつしろぞうざんちかごう):一般に広く知られ、観光客がヘルメットを着用して内部を見学できるのはこの場所のみ。大本営の政府機関や日本放送協会(NHK)などが移転する予定だった壕で、総延長のうち約500メートルが長野市によって無料公開されている。


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駅からの位置関係はこんな感じ。(左下にあります)

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こちらが壕への入口。

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壕の入口周辺はかなり整えられています。

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説明とルールはこちら。

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全体図はこちら。

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ここでヘルメットを装着します。
湿度が高い箇所があるためサンダルなどは厳禁。
運動靴で行くべき場所です。

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壕に入るには受付でのチェックが必要です。

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壕に入る扉は解放厳禁です。
小動物が入るからと受付では言っていましたが、
熊も入っちゃうんじゃないかな。
この辺りに出没するらしいし。

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入口からのびるスロープ。
この下がどうなっているのか逆に気になります。
階段なのかな?

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この辺りは明るいのですが、この先どんどん暗くなります。
このスロープの下はコンクリートなどで安定化された盛土・擁壁構造になってるらしい。

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スロープを下り切ったところで、一度天井が低くなっています。
つまり、スロープがある部分までは公開用に整備された箇所と言えそうです。

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岩が削られたままの壕の壁。

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一部補強されている箇所がありました。
マットを敷いているということは、床が常に抜けている部分なのかも。

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蝙蝠が羽ばたく音がします。
というか、目の前を横切ります。
調べてみると、キクガシラコウモリ類である可能性が高いらしい。

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歩きながら撮っているのでブレブレですが、
撮りたかったものは鋼製支保工の屋根に乗っている丸太。
平面ではない天井を支えるクッションのような役割があるのかも。
(岩盤から支保工への荷重を分散する)

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公開範囲が約500mということは、往復1km歩くことになります。
閉所恐怖症の方には向かない場所かも。

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通路の突き当り奥に緑が見える開口部がある。
換気のためにあけられた立坑(地上へ通じる開口部)かもしれない。

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ところどころにフェンスで覆われた通路があるがあるけれど、凝視するのはちょっと怖い。

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「現在地」と書かれた箇所に立っていますが、見学できる先はまだまだあります。
最終点まで行くと戻るのに時間がかかるため今回は断念しました。
(電動キックボードが欲しい)

ところで、部屋はどこにあるのか?

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通路の先を照らしている箇所がありました。
崩れていますね。(または未掘削か)

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岩肌をよく見ると苔が生えていました。
苔の胞子はどこから運ばれたんだろう?
(ズームしたけれど撮れなかった)
見間違いで藻類だった可能性もあるが。

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薄っすらと緑色でしょ?

松代の岩盤は浅間山の100倍以上古い約1,500万年前のものらしいです。

眠っていた岩盤が82年前に掘り起こされて今に至る。戦争遺構ではあるのですが、硬い岩盤がどのように風や水で風化するのかを確認できるフィールドでもある気がします。

岩盤から地下水が染み出し、穴をあけたことで水の流れが出来た。
見学通路を人が歩くことで、胞子や虫などを運び、苔または地衣類が育つかもしれない。
蝙蝠が飛び交い、糞(窒素,リン,有機物が含まれる)をすることで微生物が育つかもしれない。
戦争遺構は日々変化し、数十年後にこの地下壕は、戦時中に人が思い描いた姿とは大きく異なる風景になっているかもしれない。

この遺構が自然に還る姿を手を加えずに未来に送ること。

それもまた、「平和」という姿の一つなのかもしれないと感じました。






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【松代象山地下壕(まつしろぞうざんちかごう)】

長野県長野市松代町西条479-11
入壕可能時間 9:00~16:00 (入壕は15:30まで)
休壕日:第3火曜、年末年始(12/29~1/3)
※点検等による臨時休壕あり


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【私的考察シリーズ⑥】価値はどのように共有されるのか

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金(きん)には価値がある。

それは世界の共通認識と言ってもいいだろう。

しかし、私はそこに疑問を感じる。

なぜ世界共通認識なのか。

なぜ他のものではなく金なのか。

「希少だから」

「変質しないから」

と説明されることが多いし、それは間違いないのだろうが、それだけが理由なのだろうか。

そもそも、最初に金を見つけた人は、なぜそれを集めようと思ったのだろう。

川に砂金が落ちていたとしても、生活に追われる人が食べられもしない金属を拾い集める理由が思いつかない。

キラキラと輝いで綺麗だったからという理由であれば、自然界には金色の鉱物も他にある。

金だと見分ける知識も必要だ。

それなのに、なぜ金だったのか。

金には二種類の起源がある。

先ずは物質としての起源で、現在、「金」は地球内部で作られたのではなく、超新星爆発や中性子星同士の衝突によって宇宙で生成され、その後、地球形成の過程で取り込まれたと考えられている。

続いて装飾品としての起源で、精錬せずにそのまま拾えた自然金(砂金や金塊)が石器時代末期に装飾品として使われており、現在知られる最古級の金製品は、ブルガリアにあるヴァルナ墓地(紀元前4600~4200年頃)から出土している。

発見されている遺跡を見る限り、金を王権や神権と強く結び付けた最古の文明は古代エジプトである可能性が高い。

一方、メソポタミアでは経済の中心は銀、中国では青銅器や玉(翡翠)が重視されていた。

つまり、「金は特別である」という価値観は、人類に共通して自然に生まれたものではなく、ある文明で育まれ、それが各地へ伝わった可能性がある。

私が思うに、金を大量に産出できた地域だからこそ、その価値を国家制度へ組み込みやすかったのではないだろうか。

先ずはそういう仮説を立てて、話を進める。

日本では奈良時代以前から、金印や古墳時代の金銅製品を通じて金の価値は知られていた。

しかし、奈良時代に陸奥国から金が朝廷へ献上され、東大寺大仏に使われる。

これは、記録の上で「日本国内で国家が利用できる金が初めて大量に確保された」ことでもある。

陸奥国の初産金は749年。教科書で習う「金印」は57年のもの。

日本は、中国や朝鮮半島との交流を通じて、国家や王権を象徴するものとしての金を知る。

東大寺盧舎那大仏の造営が進み、仏身に塗る鍍金用の金が不足。

そこに陸奥守が金900両を献上。

それをきっかけに、その後も東北各地から砂金を集め続け、大仏は完成へ向かう。

このことは、金が国家にとって重要な資源とし、告知し、探させ続けたことが重要だと感じる。

食べられもしない川底の金属を拾い集める理由がここにあるからだ。

ここで視点を少し変える。

近年、日本の抹茶が限られてはいるものの、世界的にブームになっている。

海外で抹茶の人気が高まり、日本でも購入制限がかかるほど需要が増えている。

抹茶そのものは昔からあった。

変わったのは、人がその価値を世界へ伝え始めたことだ。

旅行者が飲み、SNSで発信し、「これは素晴らしい」という情報が世界中へ広がる。

需要は、そのあとに生まれる。

もしかすると古代も同じだったのではないか。

商人や旅人、あるいは戦に敗れて異国へ渡った人々が、自分たちの知る文化や価値観を伝えていく。

「金は王権の象徴である」
「金を持つ者が権力を持つ」

などという話が少しずつ広がり、それを受け入れた土地でその価値が根付いていく。

商人は品物を運ぶ。

しかし、本当に運んでいたのは、「この品には価値がある」という物語だったのではないだろうか。

価値は物が運ぶのではない。

人が運ぶのだ。

そして、価値が広がる最も効果的な方法は、「物語」なのかもしれない。

人類の歴史の中で、価値を持ったものは金だけではない。

貝、翡翠、塩、胡椒など、それぞれの時代にそれらは大変価値のあるものだった。

しかし、その多くは時代とともに価値を変化させていく。

一方で、金だけは何千年経っても価値を維持したままである。

「物質として変化しないから価値がある」という考えが今では主流となっているが、そもそも物質として変化しないことに価値が付くなら、金以外の物質が台頭しても良さそうではある。

たとえば、ダイヤモンドなど。

もちろんダイヤモンドにも価値がある。

古代から神聖視はされてはいるが、世界的に最高級宝石になったのはかなり後のことだ。

高度なカット技術がなかったためである。

宝飾品というより、力を持つ石・護符・権威の道具だったのかもしれない。

特に「婚約指輪=ダイヤモンド」という価値観は、20世紀のデビアスの広告戦略によって大衆化したもの。

物語と流通と広告で増幅された結果が、現代のダイヤモンドの価値感と言えるかもしれない。

紀元前から何千年物あいだ、金の価値は変わらない。

金が世界共通の価値になった理由は、おそらく一つではない。

産出地の偏り、加工のしやすさ、変色しにくさ、権力との結び付き、交易、人の移動、そして物語。

そうした様々な要素が、何千年という時間の中で積み重なり、「金には価値がある」という世界共通の認識を作り上げたのだろう。

人類史において、その土地ごとで価値のあるものは数えきれないほどあっただろう。

しかし、長い時間の中で変化せずに価値を保ち続けたものが、結果として金だった。

興味深いのは、人類が「価値」をどう生み出し、どう共有してきたのかという仕組みである。

金は、その問いにたどり着く入口になるかもしれない。




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【私的考察シリーズ⑤】何度も夢に見る場所

「夢に見る場所」というタイトルから想像される内容は、少なくとも三種類あるかもしれない。

実際に夢に出てくる場所
強く記憶に残っている場所
なぜか繰り返し訪れてしまう場所
私がここで語るのは、タイトル通りの「実際に夢に出てくる場所」である。

私は建物内部から外を見ている。

建物は細部まで同じではないが間取りなどはほぼ同じ。

開口部は開いた状態で、空気は循環しており、閉塞感はない。

人の気配はほとんどないが、なぜか鳥の気配がある。

鳥の姿はいつも見えない。

場所についての怖さはなく、寂しさも無く、ただここは「自分の場所である」という感覚がある。

そして私は、その場所を知らない。

私は子供のころから明晰夢を見る。

明晰夢(めいせきむ)とは、眠っている最中に「これは夢だ」と自覚し、夢の中で自分が置かれている状況や行動を自分の意思でコントロールできること。

むろん、コントロールが失敗することもあるが、そういうときは直ぐに目覚める。

同じ間取りの建物を夢に見るとき、私は建物内を探索する。

建具や、座卓の上の小物を見る。

しかしそれらは全て自分のものではなく他人のものだという感覚がある。

家族ではなく、他人のもの。 いつもここに違和感を覚える。

自分の場所なのに、他人のものがある。

確認する度に、心が少しざわつく。

建物には縁側があり、私は座敷以外に移動することが無い。

ゆえに台所などの水回りについて正確な位置が分からない。

鳥は奥座敷から少し突き出た四畳ほどの居間に居るらしい。

その場所があることは認識しているが、そこに行くことは今後も無いと確信している。

鳥は私がそこに居ることを知っている。

鳥が私を認識しているということを私は知っている。 建物の外から誰かの話し声がする。 私の興味はそちらに移る。

開口部から外を見ると、人は目線より下に立っている。

どうやら私が居るのは高台にある建物だったらしい。

私は決して建物の外には出ない。

座敷のうち二部屋以外に移動することもない。

玄関がどこにあるのかも知らない。

敷居をまたぐ自由はあるのに、私はそれをしない。

閉ざされた空間ではないのに、私は外に出ない。

外が怖いとか、部屋が落ち着くなどという感情は一切ない。

ただ何かを理解していて、私はそこに居る。

今気付いたが、私はここでは視線を上に向けることがほぼ無い。

天井どころか、欄間を見ることもない。

夢の中では欠片も考えなかったが、こうして文字にしてみると見えてくるものがある。

これは現実世界の生き方に似ている。

私はここに居る。

今ある場所が世界のすべてであるかのように。

長い時間の概念からすれば、私は今を通り過ぎる人である。

「これでいい」と思っているので視界の狭さすら気にならない。

視野の外にあることは自分の役割ではないと考えている。

私が体感している明晰夢は、現実の私の能力外のことをしない。

そもそもできない。

夢だと流れるようにビアノが弾けるとか、オペラ歌手のように歌が歌えるわけでもない。

アスリートのように走れるわけでもなく、夢で逢う人々に天才的なアドバイスができるわけでもない。

夢の中でも私は私なのである。

夢に見る場所は「自分の場所である」と考えているが、全て自分のものではなく他人のものだという感覚もある。

夢で見ている視野は、現実の私の視野の狭さなのかもしれない。

ただ、その考察で進めると、大きな謎がある。

存在のみを知らしめてくる、鳥である。

鳥の姿が見えないが、鳥かごに居るのだろうと想像している。

鳴き声を聞いたことが無いのに、鳥がそこに居ると知っている理由はわからない。

いつか判明する日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

鳥はそこに居る。私もそこに居る。

ふたつの存在はほぼ動かない。

しかし空気は流れている。

次に訪れたときも、きっと同じなのだろう。

そして私は、知らない場所を自分の場所だと思い続ける。


ChatGPT Image
この文章からAIがイメージした建物。



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【私的考察シリーズ④】 私が富山に行かなくなったわけ

立山黒部アルペンルート

私は人混みが苦手だ。

大好きな富山県にインバウンド需要が高まっていると知ってから足が遠のくほどに。
そのうえ富山市がニューヨーク・タイムズ紙紙の「2025年に行くべき52カ所」に選ばれたことで、行こうという気が全く湧かなくなった。
ちなみに、富山・金沢・白川郷・高山などを線で結ぶルートを、「サムライルート(新ゴールデンルート)」と呼ぶらしい。今後もこの辺りはインバウンド客で混雑し続けるだろうと想像している。

大好きな場所でも行かなくなるということは、私は場所ではなく、あの空気感が好きだったのかもしれない。

「あの空気感」というのは、「まだ人に見つかっていない自分だけの楽園感」である。
大好きだからその魅力を誰かに知って欲しいけれど、みんなに知られると魅力が失せる。
そういう性質を私は持っているようだ。

東京で特に苦手な駅が三つある。
新宿駅、渋谷駅、池袋駅がそれである。

年中工事をしていて場所が覚えにくい以上に、人が多すぎる。
行くと猛烈に疲れる。
半端なく疲れる。
あの、帰宅後のダルさが嫌いだ。

しかし、同じような状態なのに全く疲れない駅もある。
それは、東京駅と上野駅。

いったい、この違いは何なのか?

駅は旅の起点である。
私は主に東京駅と上野駅から旅に出る。
渋谷駅や池袋駅から旅に出ることはないし、新宿駅から旅に出ることも滅多にない。
私の中で東京駅と上野駅は外に開かれた駅ゆえに開放感があり、新宿駅、渋谷駅、池袋駅は外に開かれていないため閉塞感を覚えるのかもしれない。

開放感と閉塞感。

これがキーワードかもしれない。

富山県が好きだった理由は、とても良いところなのに人混みがあまりなく、開放感があった。
それがインバウンド需要により人混みが生じ、息苦しいさを予感させる場所になってしまった。

息苦しいのは苦手だ。
風が流れない場所は苦手だ。
何かが滞留している場所はかなり苦手だ。
言葉を填めるならば、「淀み」。

東京駅と上野駅では、慣れているがゆえに「淀み」に対して寛容になれる。
しかし、新宿駅、渋谷駅、池袋駅では慣れていないがゆえに自分が「淀み」になる。
それが嫌なのかもしれない。

私は先のテーマで、
生地の湧水、須沢海岸の石、由比のひとびと、笠間の風、南魚沼の爽快感、上諏訪・茅野の昔の人々の営み、金沢の神明宮の境内にあるケヤキ、白水阿弥陀堂の境内全域、甲府の山を背にした立地、白州の尾白川と川底の砂が好きだと書いた。

生地の湧水は絶えず流れ続けている。白州の尾白川も同じだ。
須沢海岸の石と尾白川と川底の砂は波に洗われ続けているし、
神明宮の境内にあるケヤキは風に靡いている。
笠間や白水阿弥陀堂の境内にも風は吹き抜けているし、
由比のひとびとは宿場町を行き来している。

こうして見ると、これらの場所にはほぼ「淀み」を感じない。

論文的に要約すれば、
視覚的・感覚的な息苦しさは、脳が空間情報を不快感として処理することで起こる。
動線の遮断、過密、暗く重い色、強すぎるコントラスト、過多な情報、パーソナルスペースの侵害などがそれである。

例に漏れず私もそういうことにストレスを感じているようである。

私が苦手な場所は閉塞感があるところ。
好きな場所は開放感がある場所。
違いはそこにあるのかもしれない。

あるいは、もっと単純に、流れているか、淀んでいるかの違いなのかもしれない。

もっとも、
上諏訪・茅野の昔の人々の営みに惹かれる理由については、
相変わらず謎のままなのだが。




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【私的考察シリーズ③】東京の継ぎ目を歩く

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日枝神社の山王稲荷神社、神田明神の宮本公園側、大手町の将門の首塚、根津神社、戸山公園の箱根山、亀戸天神、護国寺、そして千代田区富士見のあたり。

私にとっては、これらの場所には言葉にしづらい違和感がある。
不快というほどではないが、どこか緊張し警戒するような説明しがたい感覚。

この身体感覚は、何なのだろう?

これらの違和感を覚える場所を地図上に落としてみると、ある共通点に気づく。

台地の縁や谷の入口、低地との境目といった「地形の変わり目」に集中しているのだ。

日枝神社は麹町台地の東の縁にあり、神田明神は本郷台地の南東端の突端に位置する。
護国寺もまた雑司が谷台地の突端に立ち、根津神社は本郷台地の東縁に刻まれた「谷戸(やと)状の低地」に抱かれるように鎮座している。

亀戸天神はかつて利根川や荒川の下流に広がっていたデルタ地帯(低湿地)に鎮座し、千代田区富士見周辺には、かつて雨水や湧水が長年かけて台地を侵食して作った樹枝状(じゅしじょう)の谷地形が残る。

少しズレるが、戸山公園の箱根山は江戸時代に人工的に築かれた築山(つきやま)であり、将門の首塚は武蔵野台地の東端(麹町台地)の縁の直下、かつて日比谷入江と呼ばれた海岸線付近にあたる。

高台と低地。
乾いた場所と湿った場所。
自然地形と人工地形。
これらの場所は「地形の変わり目」なのである。

興味深いのは前述した「地形の変わり目」が、江戸の実務的な都市設計や、徳川家康のブレインであった僧侶・天海が用いた風水(陰陽道・四神相応)の思想と深く結びついていることだ。

風水において最も不吉な方角とされる北東の鬼門に神田明神、その反対側である南西の裏鬼門に日枝神社が鎮座している。日枝神社においては、台地の突端に構えることで豊臣側の残党などからの物理的な襲撃を防ぐ城塞の役割も担っていたらしい。


江戸は大地の起伏や川の流れに従って築かれた都市だとすると、現代の東京はそれとは逆の方向へ進んできた都市である。川は暗渠となり、湿地は埋め立てられ、崖は擁壁で固定される。
地下水は制御され、高低差は道路やエレベーターによって平準化されている。
江戸が地形に従って都市を築いたのに対し、現代東京は地形そのものを制御し、克服することで拡大してきたと言えるかもしれない。
それでもなお、神田明神や日枝神社、根津神社、将門の首塚のような場所では、かつての都市設計の思想が完全には消えてはおらず、現代の均質な都市空間のなかに江戸以前から続く「地形の記憶」が露出している。

実は、はじめに上げた場所の多くには、「歴史の連続性が途切れていない」という共通点がある。
1945年の東京大空襲によって市街地の大半は焼失した。
戦後多くの街並みは再建され、新しい都市として上書きされているが、護国寺の本堂、将門の首塚、日枝神社の山王稲荷神社などのように例外がある。周囲の街が戦後の再開発によって均質な都市空間へと更新されるなか、これら一角だけは、戦火をくぐり抜け、数百年前の時間が固定されたまま現代に据え置かれている。
一歩足を踏み入れた瞬間に生じるその「時代の境目」のような感覚の歪みが、私の脳に「何か違う」と感じさせるのかもしれない。


私がどうしても直視できないのは、大手町の将門の首塚である。
ここは東京のど真ん中である大手町の超高層ビル群に囲まれながら、千年以上に渡り誰も動かすことができなかった場所である。東京で最も畏怖され、同時に深く崇敬されてもいる。知人曰く、周囲のビルにオフィスを構える企業は、窓から首塚を見下ろす形になるデスク配置では、首塚に背を向けないように座るのだとか。


さて、ここまで書いておいて身も蓋もないのだが、結局のところ、私が感じていた違和感の正体は分からない。


確かに、気になる場所には地形の変わり目が多かった。

江戸の都市設計や風水の思想とも興味深い一致が見られた。
歴史の連続性という共通点もある。

しかし、それらを知ったからといって、将門の首塚や、日枝神社の山王稲荷神社で覚える緊張感が解明できた気がしない。

むしろ調べれば調べるほど、新しい疑問が増えたようにも思う。

それでも、この考察に意味がなかったとは思わない。

少なくとも私は、東京の中に自分が繰り返し反応する場所があることに気付いた。そして、それらの場所が偶然ではなく、地形や歴史の上に存在していることも分かった。

それが今回の考察の成果かもしれない。

違和感の正体は、まだ分からない。

ただ、次に同じ感覚を覚える場所に出会ったとき、私はまた、その「説明しがたい感覚」に名前を付けたくなるだろう。

答えがあるかもしれない。または、答えが見つからないかもしれない。
しかし理由を探すことは自分を知ることなのではないかと、今の私は思い始めている。




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【私的考察シリーズ②】苦手と好きの境界線

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私は神奈川県が苦手である。
理由はよく分からない。
鎌倉、箱根、小田原など、魅力的な街がある。
海も山も歴史もある。
魅力的ではあるのに、長くいるとなぜか疲れる。


私は立山が好きだ。ただあるだけで好ましい山である。
富士山よりも好きかもしれない。

そこで他の好きな場所を書き出してみた。

生地、須沢海岸、由比、笠間、南魚沼、上諏訪・茅野、金沢の神明宮、白水阿弥陀堂、甲府、白州。

もう少し細かく書くと、
生地の湧水、須沢海岸の石、由比のひとびと、笠間の風、南魚沼の爽快感、上諏訪・茅野の昔の人々の営み、金沢の神明宮の境内にあるケヤキ、白水阿弥陀堂の境内全域、甲府の山を背にした立地、白州の尾白川と川底の砂。

改めて並べてみると、自分でもよくわからない。

山もあれば水もある。石も木もある。風もあるし、人もいる。
共通点があるようには見えない。

行きたいと渇望している場所もある。

それは、大神神社と御岩神社。
どちらも山をご神体としている。
すなわち、渇望するほど行きたいのは山なのである。

やっぱり、よくわからない。

これらの共通点はいったい何だろう?

地名を削ぐと、湧水、石、人、風、爽快感、営み、ケヤキ、境内全域、立地、川底の砂、山となる。
大別すると、自然と人ということだろうか。

しかし、それも何か違う気がする。

自然が豊かな場所なら他にもいくらでもある。人の営みが残る街も珍しくない。
それなのに、なぜ私はこれらの場所ばかりを好むのだろう。

そこで、別の見方をしてみることにした。

人間は意識していなくても、地球レベルの微弱な磁気の変化を脳(潜在意識)で感知していることが科学的に証明されつつある。

脳内にある微細な磁石や網膜にある光受容タンパク質が磁気センサーとして機能していると考えられていて、渡り鳥のように方角を察知する「磁気感覚」のなごりが人間の身体にも眠っているのかもしれない。

青色光を感じるタンパク質が渡り鳥にあり、これを使って磁場を目で見て(視覚的な明暗として捉えている)おり、人間の網膜にも同様のタンパク質があるため磁場を目で見るポテンシャルがあるのではないかと、視力の弱い私は期待している。

回りくどい説明になったが、
磁場というか磁力というか、そういう引力がありそうなものを使って考えてるみるのはどうだろう。

人間の直感的な好みや選択は、無意識のうちに磁場や磁力によってなされているのかもしれない。 そう考えたい自分がいる。

自然には磁場がある。
私の体内にある磁気がそれらを欲するのかもしれない。


私は神奈川県が苦手である。
理由はよく分からない。
鎌倉、箱根、小田原など、魅力的な街がある。
海も山も歴史もある。
魅力的ではあるのに、長くいるとなぜか疲れる。


その原因は、ひょっとすると自分に合わない磁場なのかもしれないと考えると、なんとなく答えが出せた気になるのだ。

苦手も好きもそれが磁場ゆえの感覚だとすると「理由なんて考えなくてもいい」という気にすらなる。

いつか私の体内磁石の極が変わったならば、神奈川県に長時間滞在しても疲れなくなるのかもしれない。

実は、私はこの説が結構気に入っている。




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【私的考察シリーズ①】 整わない場所 ― 御頭御社宮司総社で感じた違和感の正体

日本の気になる「場所」について、私的考察を認める(したためる)ことにしました。
長文になることが多くなりそうなので、お時間とご興味のある方が居られればお付き合いください。

今回記す「御頭御社宮司総社(おとうみしゃぐちそうしゃ)」は、諏訪地方の土着神「ミシャグジ神(御社宮司神)」を祀る総社で、長野県の諏訪大社の神官を代々務めた神長官守矢家の敷地内にあります。


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御頭御社宮司総社の祠の前に立ったとき、私が感じたのは、清々しさと禍々しさが同時に存在するような、言葉にしがたい空気だった。
神社を訪れて「心が洗われる」と表現されるような感覚とも違う。むしろ、どこか神経がひりつき、得体の知れないものを前にした高揚と怖れが入り混じる。
その相反する感覚が、なぜこれほど狭い空間に共存しているのか。
その違和感を手掛かりに、この土地を地質、生態系、記憶、そして人間の制度という複数のレイヤーから見つめ直してみたいと思った。

まず、この諏訪の地そのものが、常に大地の力に晒されてきた場所である。諏訪盆地は糸魚川―静岡構造線断層帯の影響下にあり、地殻変動の痕跡が色濃く残る地域として知られている。
地震や斜面崩壊、土石流といった災害は、往々にして山の上から人々の暮らしへと迫ってくる。山裾に集落を築いた人々にとって、山際は恵みの入り口であると同時に、危険の入り口でもあったはずだ。
そう考えると、山際に点在する祠の存在も、単なる信仰施設としてだけではなく、災いへの警戒を刻み込む境界標識としての意味を持っていたのではないかと思えてくる。
目には見えない自然の脅威に名前を与え、畏れを共同体の記憶として共有する。それは、現代でいうハザードマップにも似た役割だったのかもしれない。

諏訪には古くからミシャグジという存在が語られてきた。しかし、その正体は必ずしも明らかではない。蛇神とも祖霊とも、土地の精霊とも言われ、研究者の間でも解釈は分かれている。

だからこそ私は、その曖昧さそのものに意味があるように思う。名前はあるのに正体は定まらない。人々は説明しきれない自然の気配を、ひとまず「ミシャグジ」と呼び、その畏れと折り合いをつけてきたのではないだろうか。

諏訪上社を象徴する贄の神事についても、単純に「災いを避けるための供犠」とだけ理解するには違和感が残る。猪や兎を狩るための特別な許可である御免状が存在した背景には、増えすぎた獣を適切に間引き、人と山との均衡を維持するという現実的な側面もあったのではないか。
山の生き物が飽和し、食糧不足に陥れば、飢えた獣は里へ下りて田畑を荒らす。人間はその二次的な災害を防ぐため、自然の循環に積極的に関与していた可能性がある。増えすぎれば間引き、その命を神へと還す。諏訪では蛇を大地の霊性と結びつける伝承も残されていることから、その行為は白蛇の姿をした大地の神を宥め、また喜ばせるための糧として理解されていたのかもしれない。
そこには、自然を一方的に支配するのでも、ただ恐れて従うのでもない、共生のための知恵が隠されているように思える。

さらに興味深いのは、この動的な自然の循環のすぐ傍らに、千数百年の時を超えて古墳が存在していることである。もしその古墳が移築されたものではなく、築造当初からそこにあり続けてきたのだとすれば、人々は長い時間の中で「あの場所は残り続ける場所だ」という経験を積み重ねてきたのではないだろうか。災害によって周囲の景観が変化したとしても、なお見え続けるもの。だからこそ、その場所は単なる古墳ではなく、揺らぎの中にある不動のランドマークとして認識されていった可能性がある。
のちに人々が天然痘という不可視の疫病に直面したとき、この古墳を「疱瘡神塚」として捉え直したことにも、私は同じ構造を見る。自然災害であれ疫病であれ、人間は理解しきれない脅威に対して、境界を設定し、意味を与え、制御可能な物語へと組み替えようとしてきた。
私があの場所で感じた、山側へ向けられた緊張感と、古墳がもたらす不思議な安堵感。その背中合わせの感覚こそが、この土地の独特な引力を生み出しているのではないかと思う。

自然への畏れに名前を与え、獣の命を神へ還し、疫病を封じるための結界を築く。そうした営みは、共同体の中で自然発生的に続いたわけではない。そこには、それらを「正しい作法」として管理し、継承する人々の存在があった。

諏訪において、その役割を担ったのが祭祀の担い手たちである。

諏訪の祭祀を担った守矢氏は、口伝によって知識と権威を継承し、外部から容易には介入できない統治の仕組みを維持してきた。見えないものとの付き合い方を「正しい作法」として継承することもまた、人間が自然と折り合いをつけるために生み出した知恵だったのだろう。
その閉じた制度のなかでは、男子による血統の存続はきわめて重要な課題だったはずである。
しかし、制度として語られるその裏側には、跡継ぎを望まれた妻たちの祈りや諦め、安堵や絶望といった、数えきれない悲喜こもごもにも思いを馳せざるを得ない。


もっとも、そうした政治的な思惑や制度の変遷も、さらに長い時間軸で見れば、大地そのものの存在の前では後から重ねられた解釈の一つに過ぎない。
明治の神仏分離も、祭祀の担い手たちの思惑も、疫病への恐怖も、獣を巡る営みも、人間が自然と折り合いをつけるために編み出してきた数多くの方法だった。そして、それらの物語を一枚ずつ剥がしていった先に残るのは、ただ圧倒的な密度でそこにあり続ける自然の循環である。

御頭御社宮司総社の祠の前で私の中に湧き上がった高揚感と怖れは、信仰によって説明し尽くせるものではない。大地が放つ剥き出しの存在感と、人間の奥底に眠る野生の感覚とが、言葉として納まる前に共鳴した瞬間だったのだと思う。
だからこそ私は、あの場所を「神聖だった」と単純に言い切ることができない。
むしろ、整えられた神社では感じにくい自然そのものの息遣いを、あの場所で確かに感じたのである。

清々しさと禍々しさ。
その相反する気配は、自然と人間、秩序と混沌、生と死が、幾重にも折り重なってきたこの土地そのものの記憶かもしれない。

私は今もなお、あの日感じた違和感を、うまく言葉にすることができない。
それでも、あの整わない感覚にもう一度触れたくて、また諏訪へ足を運ぼうとしている。



御頭御社宮司総社の当ブログ記事




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昭和生まれの大阪育ち・新宿区在住。食,日本酒,旅,文化財(建築物),読書等を好み、当ブログではそれらにオマケ情報も加味。それなりの年齢になり、加齢・老眼・更年期などと付き合う日々。そんな話をチマチマと記しております。
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