
本日は朝から両国にある『東京都復興記念館』に行って参りました。
ずーっと行こうと思っていたのですが、夏の暑さに負け続けた結果、防災の日(9月1日)すら超えた今日訪問することになってしまいました。
ここは主に、関東大震災について知ることが出来る施設です。
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に発生した関東大震災は、能登半島近くにあった台風の影響により関東地方に吹いていた強風、それによる火災の広がり、津波や土砂崩れなどが発生し、多くの被害を齎しました。

当時でもこの津波の高さがあったなら、
地形が複雑化している現代はどのような津波が起こるのか。
日々、ビビっているワタクシです。
ここ『東京都復興記念館』は元は陸軍被服廠のあった場所でして、東京市が買い受けて1922年(大正11年)に横網町公園の造営整備に着手。翌1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、敷地内に家財道具とともに付近の人々が避難してきました。
しかし、持ち込んだ家財道具を伝って火が燃え広がって多数の死焼者を出した地であり、ワタクシが「火災旋風」という言葉を知った、発生場所がここです。
館内の展示品は、震災の惨禍を物語る多くの遺品や資料のほか、東京大空襲の戦災関係資料なども保存・展示されています。

一階が主に関東大震災の展示品となっています。

とても気になった箱書き。洋菓子の焼焦品だそうです。
データベースの説明によると「被災した洋菓子を木箱に入れたもの」とのこと。

象牙が骨のような焼け方をするのだと初めて知りました。
素材は同じですが、その認識はなかった。
大変見応えのある内容で、祖父母が居を構えていた現在ワタクシが住む場所や、ワタクシの在京年月で絡みのある土地について、地図上で様々なことを知ることができました。

これまた興味深い資料だったのがこちら。
ウチの周辺についても知ることが出来ました。
さて、興味深いのは建物もそうでして、設計は伊東忠太と佐野利器(さの としかた)。
震災の犠牲者の霊を追悼し、その惨事を後世に伝えるべく、昭和6年(1931年)に公園内の震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として建てられました。

都選定歴史的建造物
(平成11年・1999年選定)

正面柱上のガーゴイルは先月復元されたばかりだそうです。
(令和2年・2020年8月復元)

外壁は建設当時流行していたスクラッチタイル貼りとなっています。

基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事と、設備を含めた大幅な改修がされています。
(平成29年・2017年11月~31年・2019年3月)

天井が低く圧迫感のある階段付近。
元の構造はどういうビジュアルだったんだろう?

手すりが付けられていますが、「内装からは浮いてるなぁ」と思ったりして。
(エレベーターは一階入口右手側にあります)

建物正面脇にある展示品。
日本橋の丸善ビルの鉄柱が震災の猛火で溶解したものだそうです。
鉄がこんなに溶ける温度だったのか。

鉄筋コンクリート造地上2階建。
(3階建てと書かれた資料もある)
震災記念堂(現東京都慰霊堂)も伊東忠太の設計によるものです。

内部を見学したいと思ったのですが、何かしらのイベント設営中だったので断念しました。
こちらの建物も耐震改修工事済み(平成28年・2016年)だそうです。

入口から天井部をチラ見。
折り上げ格天井が立派ですな。
シャンデリアは蓮の花です。


格子の中の絵も蓮花、なんでしょうな。
こちらも建物としての見どころが多々あるようです。見どころのフライヤーが置いてあるぐらいですし。予習をしてから日を改めて見学に行ってみようと思います。
最後に、とても印象に残った竹久夢二の「東京災難画信」の原稿の一つを上げておきたいと思います。

何処に行けばいいのか分からぬまま、生きるために歩く。被災直後の未来を知らぬ身ともなれば、このような心情だろうと思われます。
一瞬にして当たり前の生活だと思っていたものが覆されるのは、ある種今年の状況にも似ており。
改めて、防災について考えさせられました。
考えていても無力のままに終わるかもしれないけれど、それでも考えが及ぶ限りはその得ておきたいかなと思う今日のワタクシです。

【東京都復興記念館】
とうきょうと ふっこうきねんかん
東京都墨田区横網2-3-25
(都営地下鉄大江戸線 両国駅下車 徒歩約6分)
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜(祭日の場合は開館、翌火曜休館)、12月29日~1月3日
https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

ここは主に、関東大震災について知ることが出来る施設です。
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に発生した関東大震災は、能登半島近くにあった台風の影響により関東地方に吹いていた強風、それによる火災の広がり、津波や土砂崩れなどが発生し、多くの被害を齎しました。

当時でもこの津波の高さがあったなら、
地形が複雑化している現代はどのような津波が起こるのか。
日々、ビビっているワタクシです。
ここ『東京都復興記念館』は元は陸軍被服廠のあった場所でして、東京市が買い受けて1922年(大正11年)に横網町公園の造営整備に着手。翌1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、敷地内に家財道具とともに付近の人々が避難してきました。
しかし、持ち込んだ家財道具を伝って火が燃え広がって多数の死焼者を出した地であり、ワタクシが「火災旋風」という言葉を知った、発生場所がここです。
当時、被服廠跡は広い空き地であり、火に追われた人々が家具や布団などを大八車に積んでここに押し寄せ、1人/1m2程度の密度となって混雑を極めていた。時間を経るうち、周辺から火の粉が飛来するようになり、それが家具、布団などに燃え移っ て内部は騒然となった。加えて、四時半頃には、人をも空に巻き上げるほどの強烈な熱旋風が三度も襲来した。 これによって、約20分の問に38,000人もの多量の焼死者が出た。[出典]https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsk/17/0/17_KJ00002972383/_pdf
館内の展示品は、震災の惨禍を物語る多くの遺品や資料のほか、東京大空襲の戦災関係資料なども保存・展示されています。

一階が主に関東大震災の展示品となっています。

とても気になった箱書き。洋菓子の焼焦品だそうです。
データベースの説明によると「被災した洋菓子を木箱に入れたもの」とのこと。

象牙が骨のような焼け方をするのだと初めて知りました。
素材は同じですが、その認識はなかった。
大変見応えのある内容で、祖父母が居を構えていた現在ワタクシが住む場所や、ワタクシの在京年月で絡みのある土地について、地図上で様々なことを知ることができました。

これまた興味深い資料だったのがこちら。
ウチの周辺についても知ることが出来ました。
さて、興味深いのは建物もそうでして、設計は伊東忠太と佐野利器(さの としかた)。
震災の犠牲者の霊を追悼し、その惨事を後世に伝えるべく、昭和6年(1931年)に公園内の震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として建てられました。

都選定歴史的建造物
(平成11年・1999年選定)

正面柱上のガーゴイルは先月復元されたばかりだそうです。
(令和2年・2020年8月復元)

外壁は建設当時流行していたスクラッチタイル貼りとなっています。

基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事と、設備を含めた大幅な改修がされています。
(平成29年・2017年11月~31年・2019年3月)

天井が低く圧迫感のある階段付近。
元の構造はどういうビジュアルだったんだろう?

手すりが付けられていますが、「内装からは浮いてるなぁ」と思ったりして。
(エレベーターは一階入口右手側にあります)

建物正面脇にある展示品。
日本橋の丸善ビルの鉄柱が震災の猛火で溶解したものだそうです。
鉄がこんなに溶ける温度だったのか。

鉄筋コンクリート造地上2階建。
(3階建てと書かれた資料もある)
震災記念堂(現東京都慰霊堂)も伊東忠太の設計によるものです。

内部を見学したいと思ったのですが、何かしらのイベント設営中だったので断念しました。
こちらの建物も耐震改修工事済み(平成28年・2016年)だそうです。

入口から天井部をチラ見。
折り上げ格天井が立派ですな。
シャンデリアは蓮の花です。


格子の中の絵も蓮花、なんでしょうな。
こちらも建物としての見どころが多々あるようです。見どころのフライヤーが置いてあるぐらいですし。予習をしてから日を改めて見学に行ってみようと思います。
最後に、とても印象に残った竹久夢二の「東京災難画信」の原稿の一つを上げておきたいと思います。

何処に行けばいいのか分からぬまま、生きるために歩く。被災直後の未来を知らぬ身ともなれば、このような心情だろうと思われます。
一瞬にして当たり前の生活だと思っていたものが覆されるのは、ある種今年の状況にも似ており。
改めて、防災について考えさせられました。
考えていても無力のままに終わるかもしれないけれど、それでも考えが及ぶ限りはその得ておきたいかなと思う今日のワタクシです。

【東京都復興記念館】
とうきょうと ふっこうきねんかん
東京都墨田区横網2-3-25
(都営地下鉄大江戸線 両国駅下車 徒歩約6分)
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜(祭日の場合は開館、翌火曜休館)、12月29日~1月3日
https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

