
国の重要文化財に指定されている『大橋家住宅』。
大橋家は、水田・塩田開発や金融業で財を成した一族で、天保の飢饉で金千両(約1億円)を献じて苗字帯刀を許されました。江戸時代末期、徳川家茂が第14代として将軍の任にあった文久元年(1861年)に、倉敷村の庄屋を務めています。

後に倉敷紡績を設立した3名の若者の一人、大橋澤三郎(1860年 - 1889年)を輩出。
大橋澤三郎は、小松原慶太郎、木村利太郎らと、大原美術館で有名な大原家などの出資を受けて倉敷紡績を設立しましたが、29歳の若さで他界しました。
ちなみにこの情報はパンフレットには明記されていないのでは信憑性については自信はございません。


倉敷中央通りにほど近い場所にある『大橋家住宅』は、寛政8年(1796年)~寛政11年(1799年)にかけて建てられました。

街道に面して長屋を建て、その内側に前庭を隔てて主屋を構えた建物が配置されています。
倉敷町屋の典型を示す代表的な建物として、昭和53年(1978年)1月21日に国の重要文化財の指定(主屋・長屋門・米蔵・内蔵の4棟)を受け、昭和57年(1982年)6月11日に敷地も追加指定されています。
通常の町屋では許されない長屋門を倉敷代官所の許可を得て建てられている点からも、大橋家住宅の格の高さが伺えます。
平成3年(1991年)~平成7年(1994年)までの間に建物の解体を含む保存修理工事が行われました。
その後、最も屋敷構えの整っていた嘉永4年(1851年)の姿に復元され、現在の姿となっています。

[主屋]
入母屋造、本瓦葺、厨子2階建て

[米蔵]

長屋門と主屋の間にある附屋根塀が戸の向こうに見えます。
ここから稲荷社や不浄門に抜けられます。

大戸が解放された主屋。


[札]
普請覚や棟札・墨書等の資料から、
寛政8年(1796年)から寛政11年(1799年)に建てられ、
文化4年(1807年)と嘉永4年(1851年)の二度、
大改築が行われたことが判明しています。

主屋土間。
商家なので玄関を造るのは控えているそうです。
町屋には玄関を作らないのが当時のしきたりでした。
賓客は庭を通って大座敷から上がります。

【倉敷格子】


蔀戸のようなもので開口部を閉めるのですね。

[ミセの間]
賊が刀を振り上げられないように天井が低くなっています。

ミセの間の隣の「中の間」。
荷車で運ばれてきた米俵を検査する場所でした。


ここでは米の受け渡しが行われていたっぽい。

道具類の収納は部屋の上部にあります。
床に物を置きっぱなしにしない工夫ですね。

[居間]
モダンな家具が配されていました。
和洋折衷なところが商家の気配を漂わせますね。

日にちも分かる時計。
三日月の針が日にちを指すのだろうと思われます。

かなり広い土間。
三和土を造るのは大変だったろうなぁ。

台所から主屋入り口を眺む。

出入口を除き、採光はこの部分のみ。

おくどさん(土公神:どこうしん)。
大量の米が炊けそうな大竈があります。

こちらにも竈があります。
調理はこちらなんでしょうね。

板の間と座敷で身分が明確化されている台所。

座敷には当主が座します。

食器類もイイ感じ。



流し台にまで贅を尽くすとは驚き。

台所から裏庭に出ます。
脇に井戸がありました。

現在は「レストラン八間蔵(はちけんぐら)」として利用されている米蔵。

昔はこの戸の先に離れ(奥座敷)があったそうですが、
今は駐車場になっています。


主屋と奥座敷を繋いでいた廊下。


平成7年まで残っていたとは。
一目見たかった。

附屋根塀。
実は置いてあるだけの塀だったんたと、倒壊したニュースで知りました。
参考:https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000132289.html

平成30年7月豪雨で崩れた土塀は現在も修復工事中です。
真備町の被害が記憶に鮮明な西日本豪雨災害ですが、ここでも被害があったとは知りませんでした。
西日本のニュースは、あまり東日本では知り難いと毎度感じます。逆も然りですが。
一般住宅とは違い、国の重要文化財であるため修復前に調査期間が設けられ、工事完了までには時間か掛かるでしょうね。

「弐」につづく。

【大橋家住宅】
岡山県倉敷市阿知3-21-31
開館時間 9:00~16:00
休館日:12月から2月の毎週金曜、年末年始(12月28日~1月3日)
http://ohashi-ke.com/