群馬県太田市には古墳はあれども、文化財指定の建築物は驚くほど少ない。
それは、同地に中島飛行機(株)の工場があったからだと思われます。
戦時中、太田市や伊勢崎市には同社の飛行場や軍需工場があり、
米軍は日本軍の補給力を壊滅すべく、何度も両市に空襲を行っています。
ゆえに建物が焼き払われ、残っていないのです。
現在も太田市にSUBARU(旧:富士重工業)の工場が多いのは、
同社が元は中島飛行機に由来する会社であるから。
GHQによって航空機の生産・研究が禁止されたため、
中島飛行機の航空機技術者たちが自動車産業に進出。
現在に至っています。
今は外国籍の方が工場に勤務されるのが増えているのか、
今回の太田市散策ではインド系らしき方を多く見かけました。
実は戦時中の疎開については伯父からしか聞いたことが無いワタクシ。
伯父はワタクシが今住む地で生まれ育っているもんで、
東京の子供たちの疎開先に該当するのですが、
群馬県の草津や水上の辺りがそれだったようですね。
しかし、同じ群馬県でも空爆を受けた都市があったことを
今まで考えたことがありませんでした。
近年、文化財を訪ね歩くようになったことで、
先の大戦と文化財の関係が切り離せないものだと考えるに至っております。
京都など木造の築年数百年を超える建築物がある街がある一方、
地方でも空襲を受けた土地はそのような建築物がほとんどないところがある。
残っていたとしても、大概が戦後のもの。
今回初めて太田市を訪れましたが、
戦後の建物ばかりが並ぶワタクシ的に申せば近代の街なみでした。
そんな中、今回は行きませんでしたが、旧中島家住宅が現存しているのは奇跡。
国の重要文化財に指定されている敷地面積10,000平方メートルを越える大邸宅は、
中島飛行機の創業者である中島知久平が両親のために生家近くに建てたものです。
でもどうしてここは戦火を免れたんだろう?
空襲時に投下された爆弾は、この地方特有の「上州からっ風」により
目的地を逸れて流されたとも聞きますが、そのせいなんですかね?
いろいろ謎ですが、調べてみると興味深い事柄が出て来そうです。
さて、近代建築物が多い太田市内にて、少々古そうな木造建築を見つけました。
太田市立太田小学校のグランドの隅に立つ建物。
屋根が傷んでいるので今は使われてい無さそうです。
地図を見ても建物名は書かれてはおらず、
何に使われていたものなのかも不明。
外壁を見る限りは定期的に修繕はされているようです。
開口部から推察するに今は倉庫として使われていそう。
本当に古い建物が少ないため、
ワタクシのような者が街歩きするには向かない土地かもしれません。
でも中島飛行機には興味があるから、旧中島家住宅見たさに再訪しちゃうかもなぁ。
[太田市美術館・図書館]
設計:平田晃久
太田駅北口の人気スポットになっているようです。
内部にはカフェもあります。(ソフトクリームが美味しいらしい)
屋上まで続くなだらかなスロープがあり、
多くの人が建物内を散策していました。
戦後73年。
街に記憶(記録)が残るうちに、様々場所を見て歩きたいと思う今日この頃です。
【参考】
足利市の空襲 - とちぎの空襲と戦災を語り継ぐ会 ←太田市の空襲についても語られています
伊勢崎空襲