プルメリア

俳句を続けるにつれ、国語の授業で習ったことがいろいろと腑に落ちるようになりました。ただただ記憶するだけだった暗号のような文法も、意味が頭に入るようになってきたのです。
それを感じるにつれ、そもそも古文(ついでに言えば漢文も)って授業で習わねばならんものか!? という疑問が再燃。選択式にすればいいのではなかろうか? と思うのだけれど? ワタクシという一例で言えば、毎日の生活に追われている分には全く使わないし。
確かに古典文学に見る歴史的側面については学ぶ必要はあると思う。
小野小町が美人であるとか以前に、「あんた誰やねん」という謎の多さには興味が湧くし、出生が謎ゆえに全国にお墓がある点も気になる。約1200年も「美人だ」と言い伝えられているのに、実態がつかめないのも謎。

「花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に」(※)

という『古今集』の和歌から彼女が美人であることがうかがえる、と言われるものの、自己申告なのか!? という疑問も湧かなくもない。
かく言うワタクシは百人一首で絵柄が綺麗だからという理由で、上述の小町の和歌を一番初めに覚えたんですけどね。美人だと評される人物の姿を確認したくなるし贔屓したくなるタイプの人間です。ハイ。

さて、文法の話に戻ると、ワタクシは、未然、連用、終止、連体、仮定、命令という活用形をただ記憶しているだけでした。マニュアルを読まない、読むと余計に分からなくなるので実際にやってみて覚える派なんです。ゆえに教科の中では国語の成績しか良くなかったにもかかわらず、文法を用いて作文したことはありませんでした。古文も漢文も記憶しただけのもので、意味が身に付いていないなぁと感じます。古文も漢文も言葉の響きは好きなんですけど、普通に読んで意味が分かるほどこなれてはいません。小学生の頃にハマった源氏物語は、円地さんの現代語訳だったですし、博物館などで見る武将の手紙を見ても読めないし、意味も分からない。

なんだよ、候(そうろう)って。何ゆえ「で候」が数百年後に「でございます」になるの?

と思っていたりします。
鎌倉時代頃まで使っていた「候ふ(さぶらう)」が、室町や戦国時代に「候(そうろう)」に変化したのは理解できる。(鎌倉以前に男性と女性で「候」の言い方が違うってのはスルーで) 今で言うところの「笑った」が「ワロタ」になるみたいなもんでしょ。または「あけましておめでとうございます」が「あけおめ」と略するみたいなもんでしょ。
ではその後、「候」が「ございます」に変化した過程も知りたいやないの。
しかしそういう細かいところを学校では教えてくれない訳で、古文も漢文もワタクシにとってはただの記号になり果てるんです。
それらも文法からいきなりスタートするのではなく、古代の常識(たとえば「花」といえば「桜」ってのは言わなくてもジョーシキだよね、という類のもの)から教えてほしい。日用品の名前(ある種、古代の名詞ですね)を知るところからとか?
いきなり枕草子の「春はあけぼのやうやうしろくなりゆく山ぎはすこしあかりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる」から続く長文から入られても、ねぇ。古文には句読点がなく、括弧もなく、誰視点なのかも分かり難いというルールを全て開示してからにして欲しい。
そもそもワタクシは清少納言の「アタクシがオピニオンリーダー」って感じの文章が苦手だから、イラッとして頭に入って来ないんだと思うのだけれど。

日本語は、明治政府の政策により、その時期に劇的に変わったと聞きます。標準語なるものが確立されたために、「古文」になり果てた日本語たち。それを再発掘して教え込ませるにも、あまりにも現代の日本語は乖離しており、「読み言葉と書き言葉には違いがある」ってところからスタートしないと理解できなくなっていると感じます。
言葉も常識も生き物だから、時代とともにどんどん変化する。
これからの時代を生きる子供たちは覚えることが多くて大変でしょうね。
そこで、

掛け軸ひとつ読めない日本人が多いのに、テストで評価を下すような戦後の古文や漢文の授業って必要か?

と、再度思う次第です。

俳句を続けて一年半。
毎月、職場に戦争から帰って来たという人が居たという年頃の方々に、集団で句を評されるのを覚悟で作らざるを得ない(しかも月刊誌に投句せねばならん)という日々。
嫌でも文法と向き合うことになってます。
必要に迫られないと身に付かないワタクシとしては、学生時代に記憶したものの殆どが活かされない生活を送っていたんだなぁと実感しております。
学生時代に古文を学び、その道に進んで研究を続ける人が必要なのは理解できる。
日本語の歴史が廃れますもんね。
だからこそ、少し齧るだけであとは選択制にする方が良いんじゃないのかなぁ。
大学で自分が進む学部を選ばない人は居ないんだし、専門分野を集中して学ぶ方が効率が良いような気がするんだけどなぁ。

まあ、異論はあるでしょうし、
ここだけの話、ですけどね。



【意味】
花の色があせていくことに自分の身が老いていくことのはかなさを重ねて詠んだ歌とされる。
ストレートに訳すと、「桜の花が虚しく色褪せてしまった 長雨が降っていた間に」で、自分の容姿の衰えに重ねているとされています。



【にほんブログ村】