蜻蛉




9月になりました。



その1日目である本日、昔仕事でお世話になった方の突然の訃報を聞きました。



本当に突然で、唖然としました。



闘病中だとかではなく、電車内で降りない人として発見されたそうで、



本当に突然のことだったそうです。



衝撃的でした。



昔、一緒にひつまぶしを食べに行ったなぁとか、



帰りに三越で会社へのお土産を買ってもらったなぁとか、



本当にいろいろと思い出しました。



しかし、昔過ぎて、誰とも共有できない思い出です。



それぐらい私は会社でも歳を取りました。



昔お世話になった方々が一人一人と減って行くのは、本当に寂しいことです。



周囲に居る若い人は知らないような、今は御高齢の人たちなので、



訃報を聞いても誰も知らず、



訃報の衝撃を一人で抱えるってことをここ数年繰り返しています。



そもそも私は、若い頃に社外の様々な人々と接することが出来たという



レアな経験の持ち主だったのだと痛感しました。



やりたいことをやらせて貰って、今の自分があるのだなぁとも思います。



有難いことです。



でも、他の誰かとそれを共有できません。



他の誰も、私のような接し方をしていないのがその理由。



今も変わらず社外の様々な会に参加させて頂いていますが、



それすら社内の人々とは極一部しか共有出来ていません。



社会人としての私は、ある種、人間関係で育って来たと言え、



いつも誰かに引っ張って貰って来ました。



今私が在るのは、諸先輩たちの叱咤激励と、見守り、



そして、その他の人々への口添えがあったからです。



今も変わらず、様々な方々に引っ張り上げて頂いていますが。



でも、そういう人間関係は共有できるものではないんですね。



勿体ないし、切ないことに。



現代社会の人間関係はドライですもんね。



on , off きっちりと分けていると申しましょうか。



いや、本来はそれでいいし、それがいいのですけれど、



私はベタベタの昭和時代生まれなもんで、



究極の人間関係面倒くさがり放置派にも係わらず、



かなり擬態して今の人間関係を構築しております。



本当に無理をしているので、時々熱がでて寝込むレベル。



仕事以外の年賀状は限定5枚までしか書かないレベル。



そして多分このまま、



ドライな家庭生活&ウエットな社会人生活を続けて行くんだろうと思います。



でも、まあ、それでも良いのかなと思っています。



だってウエットな社会人生活を続けてきたからこそ、



今みたいに、あの頃の記憶を再生し、故人を偲んで涙ぐめるもの。



本当に良くして頂いたと感謝できるもの。



お盆の時期に見るトンボは「精霊蜻蛉」と云い、



死者の霊がトンボに姿を変えたものだいう地域があるそうです。



お盆の時期は過ぎたけれど、



願わくば、精霊を運ぶ羽のあるものたちが、



死者の霊を安らかに極楽浄土に運んでくれることを願ってやみません。



本日旅立たれた魂のご冥福をお祈り申し上げます。





【にほんブログ村】