
大阪にある世界遺産「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」の一つとしても有名な仁徳天皇陵古墳。
大山古墳・大仙陵古墳とも称されるが、教科書や一般向けの歴史記述で「大仙陵古墳」が使われるようになるのは1990年代半ば以降のことで、個人的には大変違和感があるため、ここでは「仁徳天皇陵古墳」としておく。
(2019年の世界遺産登録時にもこの名称問題はかなり意識され、最終的に推薦資産としては地元自治体・文化庁・宮内庁の協議を経て「仁徳天皇陵古墳」が採用されている)
さて、仁徳天皇陵古墳は、クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓と称されるほど巨大なものであるが、現地に立っても「前方後円墳」の形状は見えない。見えるのは濠と小高い森だけである。
墳丘の形も、大きさも、全体像も地上からは認識しにくい。
私たちが知っている鍵穴形の姿は、航空写真や地図によって得たもので、古墳の正面に立っても全体を見ることはできない。
世界遺産となり、近年の気球から古墳を見下ろすという新たな視点が加わる以前、この古墳は今ほど「見るもの」として意識されていた場所ではなかった。
少なくとも私が大阪に暮らしていた頃は、観光のために訪れる場所ではなく、日常の風景の中に巨大な古墳がただ存在していた。
教科書でこの古墳について学んだ幼少期には、ここに何が埋まっているのか、掘れば何が出てくるのか、そして誰の墓なのかということにのみ興味があった。石棺はあるものの中には何も入っていなかったという話や、過去に石棺が露出したものの、そのまま埋め戻されたという話を聞き、なぜ発掘して明らかにしないのだろうと、少し不満にも思っていた。
長じて文化財などを見歩くようになると、古墳を見る視点はかなり変化する。
あれだけの土を、どこから、どのように運んだのか。あの土地は古墳の自重に耐えられるほど強い岩盤なのか。豪雨や台風、地震などに遭いながら、なぜ全体の形を失わずに残っているのか、などという疑問が芽生える。
そもそも、仁徳天皇陵古墳はどれほど重いのだろう。
堺市によれば、墳丘は全長486メートル、後円部の高さ35.8メートル、墳丘基底部の面積は103,410平方メートル。現在の墳丘の総容積は1,367,062立方メートルで、築造当時の姿に復元した場合は1,406,866立方メートルとされる。
土の重さは種類や含水量、締まり具合によって変わるため、仁徳天皇陵古墳そのものの重量が分かっているわけではない。仮に1立方メートルの土を1.8トンとして単純計算すると、約253万トンになる。これは墳丘を構成する土だけを重量換算した概算である。
では、約250万トンもの土を載せている地面は、どのような地面なのか。
仁徳天皇陵古墳が築かれているのは、信太山台地の西端である。百舌鳥古墳群は、この台地の低・中位段丘上に広がっている。
「台地」と聞くと、その下には硬い岩盤があるような気がするが、そうではない。
信太山台地は、硬い岩盤が地表近くに露出した台地ではない。表層には礫を主体とする段丘堆積物があり、その下には砂・礫・粘土などが重なる大阪層群が分布している。信太山周辺の段丘堆積物には、主として中礫から大礫を含む砂礫層が見られ、シルト層を挟む。
ただし、これは信太山台地という地域について分かっている地質であり、仁徳天皇陵古墳直下の地盤そのものを示すものではない。墳丘直下を深くボーリングし、地層、地盤強度、地下水位などを連続的に調べた公開資料は確認できないが、この一帯が一様に平坦な土地ではなかったことは分かっている。
ここは、谷や流路によって低くなった部分と、その間に残された高い土地が入り組んでいた。
古墳を造った人々は、こうした地盤や地形の違いをどこまで理解して場所を選んでいたのだろう。
百舌鳥古墳群では、古墳と築造以前の地形との関係が調べられている。現在の大仙公園周辺にはもともと谷状の地形と、その間に残された高い土地が存在し、堺市の整備計画では、周辺の小古墳や陪塚がV字状に分布しているのは、この谷を避けて台地上に設けられたためと説明されている。
まずは、百舌鳥古墳群の成立期に築かれた乳岡古墳の立地と地形の関係を見ると、乳岡古墳は4世紀後半に築かれた墳丘長155メートルの大型前方後円墳で、信太山台地の西端、石津川に向かって開く旧河谷と流路の侵食を免れた微高地に築かれている。
御廟表塚古墳は、百舌鳥川を見下ろす台地の縁辺部に位置するし、5世紀後半に築かれたニサンザイ古墳では、発掘調査によって外濠の存在が確認されているが、後円部の背後では自然地形が高くなっており、外濠はそこで途切れていたと考えられている。
これらのことから、古墳は、もともとの地形を利用して造られたのではないかと考えられる。
文化庁の資料によれば、仁徳天皇陵古墳も信太山台地の西縁部に、等高線と墳丘の主軸がおおむね平行するように築かれている。
墳丘は三段に築かれ、その周囲には三重の濠が巡る。濠まで含めた最大長は840メートル、最大幅は654メートルに達する。 では、この土地に、高さ35メートルを超える巨大な墳丘をどのように造ったのか。
まず必要になるのが土である。
1985年、大林組のプロジェクトチームは、古代の工法で仁徳天皇陵古墳を築造した場合の工程をシミュレーションしている。そこで想定された墳丘の土量は1,405,866立方メートルだった。
問題は、その土をどこから得るかである。
濠を掘れば大量の土が出る。ならば、その土を墳丘に積み上げればよいように思える。
しかし、大林組の試算では、墳丘に必要な約140万立方メートルの土をすべて濠から得るには、濠全体を約10メートル掘り下げる必要がある。地下水の影響を考慮して約5メートルを掘削深さと想定すると、内濠から599,000立方メートル、外濠から139,000立方メートル、合計738,000立方メートルの土が得られるとしている。
そこで残りを近隣から運び込むものとし、客土量を742,000立方メートルと試算している。
これは大林組が設定した条件による築造シミュレーションであり、実際に約74万立方メートルの土が外部から運ばれたことを示すものではない。
現在も、実際の墳丘土がどこから調達されたのかは特定されてはいないが、次に疑問なのが、その大量の土をどのように積み上げたのかという点である。
発掘調査が行われた他の古墳では、盛土そのものを地盤工学的に調べる研究が行われている。
岐阜県の昼飯大塚古墳では、墳丘にほぼ水平な層状構造が確認され、一部には斜めの層も存在する。
強度分布などから、15~40センチメートル程度の厚さで土を積み重ねて築造したと考えられており、墳丘土を用いた締固め試験では、築造時の締固めエネルギーは人が足で踏み固める程度に相当すると推定されている。
大阪府八尾市の心合寺山古墳では、三段築成と墳丘斜面の安定性について検討されている。
復元された斜面の傾斜角は一部を除いておおむね21~27度で、発掘調査報告では、現代の盛土でも法面の途中に小段を設けることと比較しながら、段築には盛土を安定させる土木技術としての側面があると考察されている。
近年の研究では、古墳の設計そのものと斜面安定との関係も検討されている。
2025年度の東京大学博士論文「古墳の設計技術と広域秩序の形成」で柴原聡一郎氏は、発掘調査や三次元計測の成果を用いて古墳の立体的な設計を分析している。
柴原氏によれば、古墳の段築では、斜面が安定勾配に収まるように、造営尺に基づいて設定された基本単位を組み合わせ、墳丘全体を割り付ける方法が一般的だったという。古墳の形や規模を、盛土を安定させるための土木工学的な条件の範囲内で実現する体系的な設計技術が存在したと考えているらしい。
その研究の中で、仁徳天皇陵古墳について興味深い指摘がある。
仁徳天皇陵古墳では、墳丘の巨大化とともに、前方部を後円部に匹敵する高さまで高くすることが追求された。その代償として墳丘が不安定となり、完成直後に大規模な斜面崩壊が発生したと柴原氏は推定している。
これは、築造直後の崩壊が発掘によって確認されたということではない。墳丘の三次元形状や設計技術の変遷を分析した研究から導かれた推定である。
さらに柴原氏は、この経験を受けて中期後葉には古墳の設計技術が刷新され、より安定した設計が生み出されたと考えている。
仁徳天皇陵古墳は宮内庁が陵墓として管理しており、これまでにも部分的な調査は行われているが、墳丘内部の盛土構造を明らかにするような大規模な調査は行われていない。
そのため、ここからは他の古墳の調査成果と現代の地盤工学をもとにした推察となる。
現代の土木工学では、盛土に浸透した雨水の動きは、土の種類、締固め度、降雨強度、盛土の形状などによって大きく変わることが分かっている。
雨水は必ずしも鉛直下方へ一直線に浸透するわけではない。透水性の異なる土層が重なっていれば、その境界で水の動きが変わり、条件によっては層に沿って横方向へ移動する。
現代の土木では、この性質を利用した「キャピラリーバリア」という技術も研究されている。細粒土と粗粒土を重ねることで雨水の下方への浸透を抑え、傾斜した層に沿って水を横方向へ移動させるものである。
仮に仁徳天皇陵古墳でも性質の異なる土を層状に積み重ねていたとすれば、墳丘内部に浸透した雨水は、均質な土の塊とは異なる動きをした可能性がある。
一方、墳丘の表面を流れる雨水については、三段築成という形状が関係する。
仁徳天皇陵古墳は、地面から高さ35.8メートルの頂上まで一枚の斜面が続くのではなく、途中に平坦な面を挟みながら三段に築かれている。そのため、雨水が頂上付近から墳丘の裾まで一つの斜面を流れ落ちる構造ではない。ただし、三段築成が実際に雨水の流れにどのような影響を与えているのかは、仁徳天皇陵古墳で実測されたわけではない。
また、層状の盛土や三段築成が排水を目的として採用されたことを示す証拠もない。土の種類や積み方、締め固め方によって崩れやすさが変わることを、経験的に理解していた可能性はある。
では、約250万トンの重量は、地盤にどれほどの荷重を与えているのだろう。
墳丘基底部の面積は103,410平方メートルある。約253万トンという概算重量をこの面積で単純に割ると、平均で1平方メートル当たり約24.5トン、圧力にすると約240キロパスカルになる。
ただし、実際の荷重は均等ではない。後円部は35.8メートルの高さがあり、中央付近の地盤にはより大きな荷重がかかる。土の単位体積重量を1立方メートル当たり約18キロニュートンとして土柱の自重だけを単純計算すると、最大高付近では約640キロパスカルになる。
約250万トンという総重量が一点にかかっているわけではなく、全長486メートル、10万平方メートルを超える底面を通して地盤に伝わっている。築造によって墳丘そのものがどの程度圧縮され、基礎地盤がどの程度沈下したのかを示す資料はない。
一方、巨大な盛土を考えるうえでは、地盤がその重さに耐えられるかだけでなく、積み上げた土そのものが崩れないかという問題もある。
仁徳天皇陵古墳では、実際に斜面崩壊が記録されている。
1872年には大雨によって前方部の斜面が崩れ、竪穴式石槨と長持形石棺が露出した。周囲からは甲冑、刀剣、ガラス器などの副葬品が確認されたが、石棺の蓋は開けられず、その後埋め戻されている。
現在も濠水による墳丘裾部や堤の侵食が確認されており、増水への対応が行われている。
調べる前は、これほど巨大な土の構造物が1500年以上残っているのだから、強固な地盤の上に、極めて頑丈に造られたのではないかと考えていた。
しかし、実際には硬い岩盤の上に載っているわけではないようだ。
盛土の内部構造も明らかになっていないため実際のところは不明のままだが、完成直後に大規模な斜面崩壊を起こしたとする研究もあり、1872年には大雨による崩壊が実際に記録されている。
その一方で、古墳の立地を見ると、谷を避け、既存の高い地形を利用して築かれた例がある。
盛土についても、他の古墳では薄い層を重ねて締め固める施工が確認され、段築には斜面を安定させる土木技術としての側面があったことも研究されている。
こうした地形の利用や盛土、段築といった土木的な側面は、世界遺産としての評価とも無関係ではない。
百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録された理由の一つに、古代東アジアにおける墳丘墓築造の傑出した事例であることが挙げられている。ユネスコは、幾何学的な段築の墳丘などとともに、古墳を「土による構築物としての卓越した技術的達成」と評価している。
「土」は、世界遺産として評価された理由の一つでもあった。
現在、仁徳天皇陵古墳を地上から眺めると、巨大な森のように見える。
しかし、この森も築造当時から続くものではない。
明治20~23年には繁茂していた若竹が伐採され、松、杉、檜、樫など約19万2600本が植えられた。さらに明治28年にも1万5000本を超える苗木が植えられている。
木々の下にあるのは、約140万立方メートルの土を積み上げて造られた巨大な人工地形であるが、それは緑に覆われ姿が見えず、想像するしかない。
これからも、世界遺産に魅かれた観光客は、あの古墳の前に立つだろう。
彼らは森のように見える人工物を目にし、何を思うのだろうか。
彼らの足元には玉砂利が敷かれ、その先には濠があり、その向こうには木々に覆われた約140万立方メートルの盛土がある。
世界最大級の墳墓を前に私たちが実際に見ているのは、あらゆる意味でその表面だけである。






















