もうすぐ夏休みが終わる。社会人になり、夏休みという長期休暇がなくなった今でも、夏休みという区切りは私の中に強く生きている。
夏休みには始まりと終わりがある。子供の頃、「あと何日で夏休み」「夏休みも半分終わった」「もうすぐ学校が始まる」と、自分が時間のどこにいるのかを常に認識していた。
学校生活そのものも、時間割、学期、学年、進級、卒業と、驚くほど多くの区切りによって構成されている。子供はその枠組みの中で、自らの現在地と未来を知ることができたのである。
社会人になると、勤務時間、週、休日、月、年度などがその役割を引き継ぐ。
仕事には締め切りがあり、「金曜日まで」「今月中」「年度末まで」と区切ることで、その期間を乗り越えることができ、区切りを越えれば「終わった」という安堵を得られる。そして次の区切りから再び始めることができるのだ。
区切りがあるからこそ、人は現在が永遠には続かないと安心できるのかもしれない。
この「区切る」という人間の営みは極めて興味深い。
人間は時間を区切ることで、そこに意味を与えてきた。
一日を区切り、季節を区切り、一年を区切り、人生を年代で区切り、歴史を時代で区切る。
仕事以外の日常において、私は主に農作物を通じて季節の移ろいを感じている。技術の発達やハウス栽培の普及によってそれらが年中手に入るようになると、かつてあった明瞭な季節感は急速に希薄化していく。店頭に並ぶキュウリやナス、トマトを見ても、そこに子供の頃に感じていた固有の「夏」を感じ取ることは難しい。
かつて農作物の実りが私たちに季節の現在地を教えてくれたように、時間の区切りとは、人間が膨大な時の流れの中で迷子にならないための「道標」のようなものなのかもしれない。
しかし、この区切りの喪失は、自然の移ろいにとどまらない。
「時間を区切る」という概念は、集団生活や社会活動を成立させるうえで必要不可欠であるが、加齢によって社会との繋がりが希薄化し、他者との同調を求められなくなったとき、その区分もまた急速に曖昧になっていく。
自然の移ろいから得られる節目も、社会システムから付与される枠組みも消え去り、「時間を区切るもの」を失ったとき、人はどのような時間を生き、どのような生活を送るようになるのだろうか。
時間を区切る行為は、人に安心を与える一方で、時をカウントダウンの対象へと変質させる残酷さを孕んでいる。
子供時代や社会人の前半において、時間の区切りは常に「次の始まり(進級、就職、新年度)」を告げる希望の指標であった。しかし人生が折り返しを過ぎると、区切りが先へ進むほど、残された区間が少なくなっていく事実に突き当たる。
「60代」「70代」「80代」という区切りは現在地を知らせると同時に、人生全体の中でどこまで来たのかをも明瞭に示してしまう。仕事を辞めれば年度末や仕事の締め切りといった社会的な枠組みは消え去るが、平均寿命から逆算することで、「自分の人生のどの辺りにいるか」という現在地だけが、むしろ鮮明に意識されるようになるのだ。
現在、私は「定年まであと何年」と考えて生活している。
定年とは単に仕事を辞めるという区切りにとどまらず、これまで自分の時間を規定していた外部の仕組みそのものを失う体験にほかならない。自分で時間を設計せずとも社会が「次」を用意してくれた時代は終わり、敷かれたレールが途切れることで、人はある種の「自由」と同時に「茫漠とした迷い」の中に放り出される。進学、就職、結婚、退職と、人生の節目でリスタートを求められてきた私たちは、社会からの区切りを失ったとき、自らの手で新たな「区切り」を創出し、時間を再定義することになるのだろう。
しかし、本当に区切りを設けなければならないのだろうか。
区切りのない時間を不安に感じること自体が、長年「区切られた時間」の中で生きてきた結果なのではないか。社会的な区切りを失った後まで、自分で新たな節目を作り続ける必要があるのだろうか。
人は幼い頃から、時間割、学期、学年、年度、勤務時間、締め切りと、絶えず区切られた時間の中を生きている。いつまでに何をするのか、次に何が始まるのかを外部から示され、それに自分の生活を合わせることを身につけてきた。その結果、私たちは「何一つ区切られていない時間」を、ただそのまま受け入れる身体的な感覚を喪失してしまったのではないだろうか。
時間は、時計や暦だけで感じるものではない。
ところが、社会から区切りを与えられなくなると、人は自分で目標や予定を作り、再び時間を区切ろうとする。区切りのない時間に耐えられないからなのかもしれない。
では、時間に新たな「区切り」を設けることをやめたらどうなるのだろう。
それは現在地を失った状態なのか。
それとも、現在地を知る必要がなくなった状態なのか。
社会から与えられる「区切り」が途切れた先には、眠くなれば眠り、腹が減れば食べ、日が暮れれば一日を終え、寒くなれば冬を知るという、流れる時間をあるがままに受け入れ、自らのリズムを取り戻す日々が待っているのかもしれない。
数年先にはなるが、私は今、「晩年」がスタートすることに少しワクワクしている。
「区切り」のない生活は、新たな価値観を私に与えてくれるだろう。
そのとき私は、時間を今とは違うものとして感じているのかもしれない。


夏休みには始まりと終わりがある。子供の頃、「あと何日で夏休み」「夏休みも半分終わった」「もうすぐ学校が始まる」と、自分が時間のどこにいるのかを常に認識していた。
学校生活そのものも、時間割、学期、学年、進級、卒業と、驚くほど多くの区切りによって構成されている。子供はその枠組みの中で、自らの現在地と未来を知ることができたのである。
社会人になると、勤務時間、週、休日、月、年度などがその役割を引き継ぐ。
仕事には締め切りがあり、「金曜日まで」「今月中」「年度末まで」と区切ることで、その期間を乗り越えることができ、区切りを越えれば「終わった」という安堵を得られる。そして次の区切りから再び始めることができるのだ。
区切りがあるからこそ、人は現在が永遠には続かないと安心できるのかもしれない。
この「区切る」という人間の営みは極めて興味深い。
人間は時間を区切ることで、そこに意味を与えてきた。
一日を区切り、季節を区切り、一年を区切り、人生を年代で区切り、歴史を時代で区切る。
仕事以外の日常において、私は主に農作物を通じて季節の移ろいを感じている。技術の発達やハウス栽培の普及によってそれらが年中手に入るようになると、かつてあった明瞭な季節感は急速に希薄化していく。店頭に並ぶキュウリやナス、トマトを見ても、そこに子供の頃に感じていた固有の「夏」を感じ取ることは難しい。
かつて農作物の実りが私たちに季節の現在地を教えてくれたように、時間の区切りとは、人間が膨大な時の流れの中で迷子にならないための「道標」のようなものなのかもしれない。
しかし、この区切りの喪失は、自然の移ろいにとどまらない。
「時間を区切る」という概念は、集団生活や社会活動を成立させるうえで必要不可欠であるが、加齢によって社会との繋がりが希薄化し、他者との同調を求められなくなったとき、その区分もまた急速に曖昧になっていく。
自然の移ろいから得られる節目も、社会システムから付与される枠組みも消え去り、「時間を区切るもの」を失ったとき、人はどのような時間を生き、どのような生活を送るようになるのだろうか。
時間を区切る行為は、人に安心を与える一方で、時をカウントダウンの対象へと変質させる残酷さを孕んでいる。
子供時代や社会人の前半において、時間の区切りは常に「次の始まり(進級、就職、新年度)」を告げる希望の指標であった。しかし人生が折り返しを過ぎると、区切りが先へ進むほど、残された区間が少なくなっていく事実に突き当たる。
「60代」「70代」「80代」という区切りは現在地を知らせると同時に、人生全体の中でどこまで来たのかをも明瞭に示してしまう。仕事を辞めれば年度末や仕事の締め切りといった社会的な枠組みは消え去るが、平均寿命から逆算することで、「自分の人生のどの辺りにいるか」という現在地だけが、むしろ鮮明に意識されるようになるのだ。
現在、私は「定年まであと何年」と考えて生活している。
定年とは単に仕事を辞めるという区切りにとどまらず、これまで自分の時間を規定していた外部の仕組みそのものを失う体験にほかならない。自分で時間を設計せずとも社会が「次」を用意してくれた時代は終わり、敷かれたレールが途切れることで、人はある種の「自由」と同時に「茫漠とした迷い」の中に放り出される。進学、就職、結婚、退職と、人生の節目でリスタートを求められてきた私たちは、社会からの区切りを失ったとき、自らの手で新たな「区切り」を創出し、時間を再定義することになるのだろう。
しかし、本当に区切りを設けなければならないのだろうか。
区切りのない時間を不安に感じること自体が、長年「区切られた時間」の中で生きてきた結果なのではないか。社会的な区切りを失った後まで、自分で新たな節目を作り続ける必要があるのだろうか。
人は幼い頃から、時間割、学期、学年、年度、勤務時間、締め切りと、絶えず区切られた時間の中を生きている。いつまでに何をするのか、次に何が始まるのかを外部から示され、それに自分の生活を合わせることを身につけてきた。その結果、私たちは「何一つ区切られていない時間」を、ただそのまま受け入れる身体的な感覚を喪失してしまったのではないだろうか。
時間は、時計や暦だけで感じるものではない。
ところが、社会から区切りを与えられなくなると、人は自分で目標や予定を作り、再び時間を区切ろうとする。区切りのない時間に耐えられないからなのかもしれない。
では、時間に新たな「区切り」を設けることをやめたらどうなるのだろう。
それは現在地を失った状態なのか。
それとも、現在地を知る必要がなくなった状態なのか。
社会から与えられる「区切り」が途切れた先には、眠くなれば眠り、腹が減れば食べ、日が暮れれば一日を終え、寒くなれば冬を知るという、流れる時間をあるがままに受け入れ、自らのリズムを取り戻す日々が待っているのかもしれない。
数年先にはなるが、私は今、「晩年」がスタートすることに少しワクワクしている。
「区切り」のない生活は、新たな価値観を私に与えてくれるだろう。
そのとき私は、時間を今とは違うものとして感じているのかもしれない。
























「時間を区切る」同年代として私も時折考えるテーマです。
個人的見解ですが、人は「時間を区切る」という概念を持たずに生まれてくると思っています。
お腹が空けば泣き、気が向けば遊び、満たされれば眠る。
親が規則的なルーティンを望んでもそれは叶わず
季節や昼夜も関係なく本能の赴くままに一日を過ごし成長していきます。
不規則な一日でもそれは成長の妨げにはならず
むしろ成長していくために本能的に不規則に生きている。
自我を持つ前の乳児を比較対象に入れるのはテーマから逸れるかもしれませんが
原点はそこなのかなと個人的に思います。
そして、子供から大人への過程でコミュニティの大小はあれ
それぞれの社会の枠組みの中で生きていくために「区切りのある生活」を受け入れ生きていくことになる。
他人との集団の中で生きていくためには「区切り」と呼ぶルールがなければ成立しないのかもしれません。
そこには希望もあり、挫折もあり、「区切り」から逸脱する人もいるでしょう。
でも逸脱した人も、また別のコミュニティの中で新たな「区切り」を受け入れ生きていく。
過去も現在も暮らし方の差はあったかもしれませんが、人はそうやって生きることで社会を循環させ、あらゆる面で進化し、地球上でここまでの位置に辿り着いたのかもしれません。
続きます