
子供のころ、私は高いところが好きだった。
天守閣に上れば廻縁(まわりえん)まで行ったし、高い場所から下を眺めることにも全く抵抗がなかった。怖いどころか、むしろ爽快な気分だった。それが、ある日突然、怖くなった。比喩ではなく、本当に突然だった。その時のことはよく覚えている。立っていた場所も、コンクリートの質感も、扉までの距離も、そして、爪先から皮膚の内側を這い上がるようなゾワゾワとした感覚も、止まらない小刻みな震えも、それらが齎す恐怖も覚えている。何が起きたのか分からなかった。高い場所から落ちたわけではない。誰かが落ちるところを見たわけでもない。事故のニュースを見たとか、怖い映像が記憶に残っていたとか、そういう分かりやすい理由もない。唐突なその「瞬間」から高いところが怖くなったのだ。昨日まで好きだったものが、今日から怖い。そんなことがあるのかと思うが、実際に私には起きた。その瞬間から私はずっと高所恐怖症である。程度には波がある。比較的平気な日もあれば、橋を渡ることさえ難しい日もある。橋が昨日より高くなったわけでも、欄干が低くなったわけでもないのに、怖いという感覚にはかなりの差が生じる。この恐怖心と症状の波は、私のどこから生じているのだろうか。
考えてみれば、私はこれまでにも何度か、自分が突然変わるという経験をしている。
子供の頃、跳び箱が飛べなかった。何度やってもうまくいかなかったのに、ある日、「飛べる!」という思いが、跳び箱を前にした時に唐突に湧きあがった。その思考に根拠はなく、朝起きたら筋力が増えていたわけでも、新しい飛び方を教わったわけでもない。それなのに、なぜかそう思えた。そして、飛んでみたら、飛べた。
遠泳でも似た覚えがある。怖いと感じて泳げなかった距離が、ある時「泳げる」と思えた。そして、実際に泳ぎ切れた。「できる」と自分に言い聞かせたから「できた」のではない。思い返してみると、思考と身体のどこかが、すっと一致した気がする。「整った」と言った方が近い。それまで何かが微妙に噛み合っていなかった。それが瞬間的に、ぴたりと合った。そして私は、その状態を「今ならできる」という感覚として受け取った。「できる」と思ったから、できたのではない。できる状態になったから、「できる」と感じたのではないだろうか。
そう考えた時、日常にあるいくつもの小さな不思議が同じものに見えてきた。
たとえば掃除である。
私は常に掃除がしたいわけではない。面倒だと思って放置することもある。かなり放置する傾向にある。それなのに、ときどき唐突に掃除がしたくなる。
料理もそうだ。
普段なら面倒だと思うようなものを、なぜか作りたくなる日がある。誰かに命令されたわけでもない。「今日はやる気を出そう」と決意したわけでもない。ただ、やりたくなる。
あれを「やる気が出た」と呼んでいるが、本当にやる気が先なのだろうか。
何らかの条件が整った結果として「やりたい」という感覚が生まれ、それを私たちは後から「やる気」と名付けているのではないだろうか。
アイデアが浮かぶ瞬間も似ている。
いくら考えても何も出てこないことがある。ところが入浴時の洗髪中や電車に乗っているときなど、全く別のことをしている最中に突然考えが繋がる。
「あ。」と思う。その時点で、頭の中に新しい情報がインプットされたわけではない。それまで分散して持っていた記憶や知識や経験が、その瞬間に繋がったのではないか。その繋がっていく過程を知らないまま、完成したアイデアだけが突然浮かび上がり、それを「思いついた」と感じているのではないか。
「あった」ものが「なくなった」という、逆の経験もある。
私は子供の頃、暗い部屋が怖かった。寝る時には豆球を点けて寝ており、真っ暗な部屋では眠れなかった。ところが今は、真っ暗じゃないと眠れない。いつ変わったのだろう。
「今日暗闇が怖くなくなった」という日は記憶にない。「暗闇を克服しよう」と努力した覚えもない。ただ、気がついた時には怖くなくなっていた。いつの間にか、暗闇に対する何かが切り替わっていたのだ。
もう一つ妙な経験がある。
幼少期に見ていた夢は白黒で、できれば夢をフルカラーで見たいと思っていた。そうすれば、美しい景色は、より美しく感じるだろうから。そうしているうちに、夢はフルカラーになった。因果関係は証明しようがないが、私は「こうなってほしい」と考え続け、「そうなった」。
さらに私は、夢そのものをコントロールしようとした。これは突然できるようになったわけではない。夢の中で自分の意思を働かせようと意識し続け、少しずつできることが増えていった。その結果、今ではいわゆる「明晰夢」を見ることがある。
夢の途中で「これは夢だ」と気づいた瞬間に、夢との関係性は変わる。内容を操作し、自分の望みを達成しようとする。近年は、行ったことのない場所から家に帰ろうとすることが多いのだが、会ったことのない人と会話をし、時には交渉もし、目的地に向かおうとする。不思議なのは、自分の夢でありながら、そこに現れる場所も人も私の意思では決められないことだ。その一方で、夢だと気づいた私は、与えられた世界の中で考え、選び、行動することができる。つまり、明晰夢の中でさえ、「自分には決められないもの」と「自分で決められるもの」が共存しているのだ。
いったい、これは何なのだろう。
跳び箱の前で「今ならできる」と思った時の感覚とは違う。それでも、どこか似ている。どちらも、何かを認識した瞬間、それまでとは自分と対象との関係が変わっている。だとすると、意識は自分の内部で起きていることを、ただ後から知らされているだけでもないらしい。気づくことで、介入できる場合もあるからだ。ある時は自分から望み、ある時は「今ならできる」という予兆を受け取り、ある時は突然結果を突きつけられ、ある時は何も知らないまま変わっている。
ここで、最初の問いであった恐怖症の話に戻る。
私は高所恐怖症のほかに、若干の閉所恐怖症と、トライポフォビア(集合体恐怖症)を抱えている。だが、この三つは私の中で決して同じ「怖い」ではない。高所では爪先から皮膚内部を這い上がるような身体的反応が生じ、閉所では狭さそのものではなく「そこから自由に出られないかもしれない」という関係性の認識において恐怖が生じる。
一方で、トライポフォビアにはこうした思考や関係性が介在する余地がない。そこにあるのは、思考以前の直接的な生理的嫌悪感であり、ただ対象そのものを排除・回避したいという明確な拒絶である。だからこそ私は、トライポフォビアがいつか消えるとは思っていない。少なくとも私には、そこに関係性を再構築するための「余白」があるようには思えない。
しかし、高所恐怖症については不思議と「いつか治るのではないか」という予感がある。それは、かつて高い場所が大好きだったという鮮明な記憶があるからであり、何より「好き」から「怖い」へ一度スイッチが切り替わったという事実そのものがあるからだ。
振り返れば、私はこれまでにも自分が自分の知らないところで変わってしまうことを何度も経験してきた。飛べなかった跳び箱が飛べるようになり、泳げなかった距離を泳げるようになり、怖かった暗闇が平気になり、色のなかった夢にいつの間にか色がついた。私はそのどれについても、内部で何が起き、何が整ったのかを正確には説明できない。
ゆえに高所についても、ある日突然、私のあずかり知らぬ場所で何かが変わり、元に戻る可能性を私は否定できない。そして、否定したくもない。
ある日、高い場所に立って何気なく下を見たとき、あの恐怖が消えていることに気づくかもしれない。あるいは跳び箱のときのように、その直前に「今なら大丈夫だ」という予兆を受け取るのかもしれない。医学的な根拠があるからでも、単に楽観しているからでもない。ただ私は、自分というものが、自分の知らないところで勝手に変わることがあると知っている。
いつか再び天守閣に上り、風が吹き抜ける場所で城下町を見下ろしたい。
そう夢想することで、高所恐怖症がなくなる日に備えている。























またまた興味深い記事ですね。
毎回長文ですみません。
大人になってからですが、一時期「シナプスやニューロンの仕組み」に興味を持った時期があり
神経伝達物質についてネットや文献で調べていました。
興味を持ったきっかけが今回のsavaさんの記事と少しリンクしていてびっくりなのですが
友人と久しぶりに観覧車に乗った時に
動き出すと同時に足の裏とお尻がザワザワゾクゾクし始め呼吸が浅くなり
目を開けていられず、恐怖感で震えてしまい友人に心配をかけてしまったのです。
それまで私は高所が大好きだったので自身の反応に驚いてしまいました。
それ以降、高い所(吊り橋やリフト、高層ビルの吹き抜けなど)は今でも苦手です。
その時に「私の中で何が起こったんだ?」という疑問が調べるきっかけでした。
本来、シナプス(情報の隙間)は様々な経験や学習で脳や神経に情報を伝達して
それが繋がる事で今までできなかった事ができるようになるのが一般的な考え方ですが
できていた事ができなくなるのも脳内で何かが起きてるからでは…と思ったのですが
調べれば調べる程専門的になり、途中で挫折しました(笑)
ただ、調べている時に子供の頃の記憶が突然蘇ったんです。
2〜3歳の頃暮らしていた自宅は、一階が駐車場で二階の自宅にはアルミ製の外階段を上っていく構造でした。
ある日、その階段を降りる時に足を踏み外して落ちてしまったんです。
落ちていく中、アルミ製の階段の滑り止め用の3本線のような模様が脳裏に焼き付きその模様と落ちた事を思い出したんです。
そして、観覧車の床が同じようにアルミ製で3本線の滑り止めのある床だったんです。
観覧車の床がトリガーとなり、過去の転落の恐怖感を思い出し
それが今の高所恐怖症に繋がっているのかもしれない…と、脳科学者ぶって納得して終了しました。
続きます