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私は語彙力のない子供だった。

読書が趣味だったので書物に出てくる言葉を知ってはいても、実用例を知らなかったと言える。
自分の行動に起因する感情について、当てはまる言葉を知らなかったのだ。

あの頃の自分を理解し、弁護するために、また、その感情を私に齎した周囲の人たちを理解するために、私は今も言葉を探し続けている。

言葉は感情や行動に分類を与えるツールと言えるかもしれない。

乳幼児は泣く。 空腹なのか、不安なのか、不快なのか、眠いのか。
記憶が無いので断言はできないが、本人にも分からないのかもしれない。
大人はその泣き声に、
「お腹が空いたのかな」
「眠いんだね」
「痛かったんだね」
などと、推察した後にとる行動を決めるために意味を付けようとする。
人は生まれた瞬間から自分以外の誰かによって、その行動に名前を付けられていく。

例えば大人の意に添わないことを子供がした場合、大人は詰問するだろう。
「なぜ、そんなことをしたのか」と。

子供は自分の行動の起因に付ける言葉をあまり知らない。
だから答える。
「なんとなく」と。
または「わからない」「しらない」と。
大人はそれらのあやふやな言葉に納得できない。
子供であった時代を忘れ、大人が持つ語彙力で判断する。
「なんとなくではない、理由があるはずだ」と。

大人は子供を叱る方向性を、子供の答えから考えようとしている。
しかし、子供は自分の感情や思考に名前を付けるのが得意ではない。
ここにお互いの不幸がある。

大人になって思うことがある。
語彙力の無い子供のために、大人が一緒に考えてみるのはどうだろうか。
イライラしている時にこれができる大人が居るのかは別として、子供にとっては救いになるだろう。

子供は大人が指示することが嫌だと思っても「なぜ嫌なのか」という理由を述べられない。
「嫌だから嫌なのだ」というのは、子供にとって十分に完結した理由だ。

しかし、大人は「理由になっていない」とそれを却下し、代わりに別の、大人にとって都合の良い名前を貼り付ける。「わがまま」「怠け者」「ずるいやつ」「頭が悪い」「根性が悪い」などと。
そうして貼られたラベルを、子供は「これが自分の正体なのだ」と受け入れてしまう。 少なくとも私は、その言葉の一部を自分の正体だと思い込んでいた。そこに存在したはずの、もっと繊細で、もっと別の、名前のない感情は、大人が分類した粗雑な言葉によって上書きされ、消えていく。

かつての私がそうだったように、子供が「なんとなく」という言葉を使う時、その胸の内には、言葉にならないモヤモヤした複雑な感情が渦巻いている。言葉という絵の具をまだ数色しか持たない子供に、夕暮れの空の複雑な色合いを説明しろと言う方が酷なのだ。

だからこそ、大人が発する言葉は子供を追い詰めるための武器ではなく、彼らの心に寄り添うための「パレット」であってほしいと思う。
「不公平だと思ったのかな」「それで悲しい思いをしたんだね」「どうしていいか分からなくなったのかな」などの差し出されたいくつかの言葉の中から、子供が自分の感情を当てはめることができたのならば、子供は言葉を覚えるし、覚えた言葉で自分を表現できるようになるかもしれない。

言葉を紡いで自分を表現できなかった子供時代の不安定さを今も思い出す。大人に抗いたい子供こそ、本を読んで語彙力を広つけるべきだと思う。
世の中の理不尽さに対抗する第一歩は語彙力である。語彙力があれば、知識は自然についてくる。

暴言や壁を叩くといった「粗暴な行動」に逃げざるを得ない子供がいる。語彙力がない子供の反抗は、どうしても肉体的で粗暴なものになりがちだ。
大声を出す、物に当たる、あるいは完全に心を閉ざして黙り込む。
それらは決して「乱暴な子」だからではなく、胸の中の巨大な熱量を外に出せずにもがいている姿なのだ。
もしも、「私が怒っているのは、あなたの言い方に尊厳を傷つけられたからだ」と言語化できるならば、その時点でモヤモヤした感情は消化できるかもしれない。

言葉を知ることは、自分を守る武器を手に入れることだ。
理不尽な大人や、通り一遍のラベルを貼ろうとする社会に対して、「違います。私の気持ちはそんな雑な言葉では表せません」と言い返すための盾なのだ。
語彙力を得ることは、他者からの精神的侵略を防ぐ、静かで強力な抵抗力を持つことなのだと思う。

私は今も、水に落とした墨汁のように複雑で、名前を付けられずにいるあの頃の感情を覚えている。
そして、粗雑な言葉で分類された事実を抱えて立ち尽くしている自分を救いたいとも思っている。

今の私は、ほどほどに自分の感情を表す言葉を集められたと思う。だが、まだまだ不足しているため、感情と言葉が合致しないこともある。
相手を傷つける言葉を知ってはいるが、それを使わないために沈黙することを覚えた。そして、沈黙は年々増えている。「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉を脳裏で繰り返し唱えながら、黙り続けることもある。
かつて子供だった頃の沈黙は、言葉を持たないがゆえの「無力な諦め」だった。 しかし、大人になった今の沈黙は少し違う。 相手を容赦なく切り刻めるだけの言葉の刃を、あえて鞘に収めるための「意志のある選択」だ。
語彙が増えるということは、自分を守る盾を手に入れると同時に、他者を傷つける武器の扱い方を覚えることでもあるのだと思う。

それでも、いまだに言葉にならないモヤモヤした感情が波打つこともある。
今の私でさえそうなのだから、あの頃の私が言語化できず、よくわからない感情の霧の中に立ち尽くしていたのも当然だとも思える。

私の語彙力は、まだ発展途上である。
感情とぴったり重なるピースが見つからなくて、もどかしく感じることも多々ある。

だからこそ私は、今日も本を開く。

自分のなかに湧き上がる名付けようのない感情にふさわしい名前を与えるために。




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