
子供の頃、勾玉(まがたま)を見る基準は単純だった。「欲しいか、欲しくないか」である。
そして私にとって勾玉は、「欲しいもの」ではなかった。
博物館で見ても、「古代の装身具」という程度の印象しかなく、特別な興味を持つこともなかった。
ところが、勾玉について少し立ち止まって考えてみると、疑問が次々と湧いてくる。
勾玉は、考古学において「縄文時代から古墳時代にかけて見られる、頭部が大きく尾部が細く湾曲した、孔(あな)のある特異な形状の石製装身具」と定義される。
縄文時代前期(約6000〜5000年前)にはすでに初期の勾玉が現れており、中期から晩期にかけて新潟県糸魚川周辺を産地とするヒスイ(硬玉)の勾玉が作られ始める。その後、勾玉は日本各地へと流通していく。古代のヒスイの勾玉はほぼ100%糸魚川産であると、現時点ではそう考えられているらしい。
そう! 縄文時代には既に日本各地に「流通」しているのだ!
弥生時代になって階級社会が成立し始めると、勾玉は単なる装飾品から権力者や祭祀者が持つ威信財(いしんざい:権威を示すための財宝)としての性格を強める。この時代の勾玉には、朝鮮半島南部との交易によりガラス製の勾玉なども登場する。
古墳時代には、古墳の副葬品として大量に出土するようになる。特に古墳時代中期には「子持勾玉(こもちまがたま)」と呼ばれる、大きめの勾玉の表面にさらに小さな勾玉が突き出た特殊な祭祀具も登場する。
しかし、仏教が伝来する6世紀後半から、律令制の導入期である7世紀にかけて急速に作られなくなり、歴史の表舞台から徐々に姿を消すことになった。
勾玉は、最も格式高い素材であるヒスイ(硬玉)のほか、碧玉(へきぎょく)、瑪瑙(めのう)、琥珀(こはく)、滑石(かっせき)などが使われている。
ヒスイの産地は新潟県糸魚川(いといがわ)流域に限られており、ここで加工されたヒスイ製の勾玉は、北海道から九州、さらには朝鮮半島南部からも出土しており、縄文・弥生時代にすでに海上を含んだ広範囲で高度な流通網があったことを示している。糸魚川で採れた、あるいは一次加工されたヒスイが西日本へ集められ、そこから朝鮮半島へと輸出されていたのだ。
「流通」は、古墳時代には海を越えるのである。
そもそも、勾玉の形にも疑問が湧く。
逆「C」の字のような独特な形(頭部が大きく、尾が丸まって尖る)をしているが、その由来については現在も決定的な定説はない。
考古学・民俗学の観点では、
- 動物の牙・爪を模倣したことが最も古い起源であるとする説
- 縄文人が狩猟対象の牙に孔を開けてペンダントにしていたものが、やがて石を削って形を整える過程で定型化したという説
- 湾曲した形が胎児の姿に似ていることから、生命の誕生、再生、不老不死を祈る呪術的な意味が込められていたとする説
- 月の満ち欠け(特に生命の復活や時間の経過を象徴する三日月)を神格化し、その力を身に宿そうとしたとする説
- 水中に生きる魚の形、あるいは人間の魂(たましい)が体から抜け出たときの形(火の玉のようなイメージ)を表しているという説
という仮説が提示されているという。
この形が造られた当初の意味としては、個人的にはどの説もしっくりこない。
形に宿す意味は時代ごとに異なる可能性もあるが、あえて推すなら「月の満ち欠け」か。
形の意味はさておき、硬いヒスイを削って整形する技術にも疑問が湧く。
勾玉が他の石器と決定的に異なるのは、頭部に孔(あな)が開けられている点である。
石を削るだけなら打製石器にも見られるし、磨いて仕上げるなら磨製石器もある。
しかし、極めて硬いヒスイに正確に孔を開け、それを装身具として身に着けられるようにするのは全く別次元の技術だったのではないだろうか。
勾玉の価値は、形だけではなく「孔を開ける技術」そのものにもあるように思える。
極めて硬く頑丈なヒスイを加工する技術は、今からおよそ5500年前(縄文時代中期)に完成したらしい。ヒスイと同じく糸魚川周辺で採れる石英(硬度7でヒスイよりわずかに硬い)を細かく砕いた「石の粉」をヒスイを削るのに用いたという説がある。石の粉を水と混ぜて泥状にし、石や木、あるいは弓の弦(紐)に塗す(まぶす)ことで、ヤスリのようにしてヒスイを少しずつ擦り切りしたり、表面を鏡面のように磨き上げたりしていたとされる。
糸魚川市にある長者ケ原遺跡からは、大量のヒスイの割れクズ、加工途中の未製品、そして加工用の砥石が出土している。これにより、この時期にヒスイを思い通りの形にし、きれいに孔(あな)を開けてピカピカに磨き上げる一連の技術が確立されていたことが判明したという。
勾玉は、およそ3,000年以上にわたって作られ続けている。
これほど長い年月を経ても、基本的な形はほとんど変わらず、各地から出土する勾玉には共通した「勾玉らしさ」がある。 私には、この形は幾世代もの試行錯誤を経て選び残された、一つの完成形だったのではないかと思える。
形の由来は今なお分からない。しかし、3,000年以上という長い時間のなかで、その形に託される意味は少しずつ変化していったのではないだろうか。
作られ、使われ続けたことは変わらなくても、「なぜ使うのか」という理由は、時代ごとに変わっていったのかもしれない。
さて、続けて疑問が湧くのは加工技術だ。
職人集団は、いつ形成されたのだろう。
石を見つけ、石を選ぶ。石を削り、失敗すればすべてが無になる孔を開け、磨く。これに携わる人を仮に「職人」と呼ぶなら、こうした技術を身に付けた人が、狩猟や農耕と並行しながら継続して加工を続けるのは容易ではないように思える。やがてコミュニティーの中で役割分担が生まれ、玉作りを専門に担う人々が現れたとしても不思議ではない。
一人の職人の活動期間は長くはない。仮に一世代を25年とすると、3,000年間では約120世代になる。一つの知識体系が、120世代にわたって受け継がれたことになるのだ。そう考えると、勾玉は「知識の継承を可視化した遺物」と言えるのではないだろうか。
では、現代にも同じようなものはあるのだろうか。
勾玉のように3,000年以上前から現在に至るまで基本的に同じ用途・デザイン・技法を継承し、日本列島で作り続けられているもの。それは、漆椀(漆器のお椀)、櫛(くし)、箸(発祥は中国)、畳(の原型)である。
漆椀については3,000年どころか約9,000年前(縄文時代早期)から続くものではあるのだが。
たとえば櫛は、日々使っていても、それ以外の形状が思い浮かばないほど完成された形になっている。
そもそも形について疑問に思ったこともない。
この「当たり前の形状」という感覚が、勾玉にもあったのではないだろうか。
また、はじめは身分の高い者しか持てなかったという点では、漆椀が似ている。
縄文時代に始まった漆器は、長く特権階級の富の象徴だった。しかし江戸時代、庶民は「ハレの日」の冠婚葬祭用に村全体でお椀を共有する仕組みや、柿渋などの身近な素材を混ぜた安価で頑丈な「実用漆器」の技術を各地で開発する。各藩による地場産業としての奨励も後押しとなり、それまで高嶺の花だった漆器は、誰もが日常的に使える身近な生活用品へと生まれ変わった。
縄文・弥生時代を通じてエリート層の威信財だった勾玉は、古墳時代の中期から後期にかけて大きな転機を迎える。それまでの希少なヒスイに代わり、軟らかく加工しやすい滑石(かっせき)を素材に用いることで、大量生産が可能となる。これにより勾玉は身分証としての役目を超えて、集落の祭りや儀式などで大量に消費される一般庶民の身近なアイテムへと広がっていった。
双方に共通するのは、大量生産・大量消費で、誰もが当たり前に使えるようになること。
櫛や畳、日本でも使われる箸なども、一般に普及してこそ今なお使われ続けるものとなっている。
万民に普及し、当たり前の存在として使われ続けることが、「文化の連続性」を生むのかもしれない。
しかし、それは永遠ではない。
例えば、栄養摂取が液体中心になれば箸や椀は不要になるかもしれない。頭髪を保つことが一般的でなくなれば櫛は使われなくなる。寺院建築そのものが姿を消せば、畳も今とは違う存在になるだろう。
つまり、道具が消えるのではない。道具を必要とする生活そのものが消えるのである。
そのとき、「文化の連続性」もまた終わりを迎えるのかもしれない。
ここまで考えて気づいたのだが、数千年前の人々が使っていた日用品の形や技法が、大きく姿を変えることなく現代の一般家庭まで地続きで受け継がれている国は、世界を見渡しても決して多くはないように思える。
思い浮かぶのは世界各地に残る石臼くらいであるが、ほかにも例はあるのだろうか。
さて、勾玉は古墳の終わりとともに人々の日常からは姿を消し、現代では「神と天皇の領域」にだけ残る特別な存在になった。しかし、その領域にだけ今日まで受け継がれてきたということは、あの形そのものに、よほど強い意味があるのだろう。
私には勾玉が何を模し、何を意味するのかは分からない。
だが、知りたいとは思う。
今後も私は博物館で勾玉を見るたびに、その形を眺めながら考え続けるだろう。
三日月なのか、あるいは……






















