
松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期に軍部が本土決戦に備えて極秘に建設した巨大な地下壕群。
国家中枢や皇室、政府機関の移転が計画され、延べ約75万人の労働者が動員されました。
松代大本営跡は計3箇所の大地下壕群の総称で、現在は「松代象山地下壕」の一部(約500m)が無料公開されています。
【私的考察シリーズ風】
太平洋戦争の戦局は急速に悪化し、1944年(昭和19年)7月にサイパン島が陥落すると、アメリカ軍のB-29爆撃機が日本本土を直接攻撃可能になった。東京への大規模な空襲が現実味を帯びたことで、大本営や政府機関、通信施設、さらに天皇の御座所を内陸へ移す構想が具体化する。
候補地の調査は長野県内で行われたが、松代以外にどの地域が正式な候補として比較されたのかは、公開資料では明確ではない。
1944年5月ごろ、陸軍の井田少佐らが信州で適地を探し、松代付近を移転先として報告した。その後、松代を中心に、象山・舞鶴山・皆神山の三地区、さらに須坂方面や善光寺周辺などへ関連施設を分散配置する計画が進められた。
着工は1944年11月11日。
終戦の1945年8月15日まで、およそ9か月という異例の短期間で工事が続けられた。
この間、工事は昼夜二交替制で進められた。ダイナマイトで岩盤を破砕し、人力とトロッコで岩石を搬出するという、現在から見れば極めて原始的な工法である。それでもわずか約9か月で、総延長約10kmに及ぶ地下壕計画の約75~80%が完成したとされる。計画そのものが、いかに国家の最優先事項であったかを物語っている。
地下壕は一か所ではなく、三つの山に分散して建設されている。
最も規模が大きいのが象山地区(イ号倉庫)である。
この「イ号倉庫」という名称は、軍が計画を秘匿するために付けた符号だった。
実際にここに入る予定だったのは、政府各省の主要部、日本放送協会(NHK)の海外局、中央電話局などの行政・通信機能だった。計画延長は約7.5km、終戦時には約5.9kmが掘削され、約80%まで完成していたとされている。現在一般公開されている地下壕は、この象山地下壕の一部約500mである。
一方、舞鶴山地区(ロ号倉庫)には、大本営参謀本部と天皇・皇后の御座所、宮内省を置く中枢施設として計画された。地下壕の延長は約2.6kmで、終戦時には約90%まで完成。現在も地下壕の大部分は気象庁松代地震観測所として利用されており、極めて安定した岩盤環境を生かした世界有数の地震観測施設となっている。
皆神山地区(ハ号倉庫)は、当初は大本営や御座所の候補地だったが地質条件が適さないことから食糧や物資を保管する巨大な備蓄庫へと計画が変更された。総延長は約1.9km。終戦時にはほぼ掘削は完了していた。現在は崩落の危険があるため非公開となっている。
さらに、この三地区以外にも、善光寺周辺や須坂方面には送受信施設や印刷局などを配置する「ニ号」「ホ号」「ヘ号」「ト号」「チ号」「リ号」などの関連施設が計画されていた。つまり松代大本営とは、単なる地下壕ではなく、一つの「地下都市」を建設する計画であった。
松代が選ばれた理由の一つが、堅固な岩盤である。
象山地下壕の壁面には、安山岩質のひん岩(玢岩)が広く分布すると考えられている。ひん岩は地下浅部でゆっくり冷え固まった火成岩で、現在の分類では安山岩質岩脈として扱われることが多い。圧縮強度は100~250MPa程度に達することもあり、花崗岩に匹敵するほど硬い岩石である。局所的には凝灰角礫岩や凝灰岩も分布すると考えられるが、公開区間の大部分は非常に緻密で硬い安山岩質岩盤で構成されているとみられる。
この岩盤の存在が、地下壕を素掘りのままで維持できた理由でもある。
公開区間ではコンクリートで覆われた部分はごく一部で、大半は80年以上経った現在でも岩肌がそのまま露出している。崩落が少なく、気象庁が戦後に地下壕を地震観測施設として転用したことも、この岩盤の安定性を裏付けている。
一方で、この硬い岩盤は工事を難しいものにした。
現在のトンネル工事のような大型掘削機械は存在せず、削岩機で穴を開け、ダイナマイトで発破し、砕けた岩石を人力で搬出するしか方法はなかった。坑道内は照明も限られ、粉じん、騒音、振動の中での重労働が続いた。
工事には延べ約300万人が従事したとされる。 資料では、日本人男性労働者、朝鮮半島出身の男性労働者、建設会社(西松組・鹿島組など)の作業員、勤労動員された男性が主体だったことが確認でき、実際に現場で働いた朝鮮半島出身者は約6,000~7,000人と推定されている。
一方、地域住民や女性も炊事や飯場の運営、勤労奉仕などの形で工事を支えた。戦時中には女子挺身隊が防空壕掘削などの土木作業に従事した例は全国にあるが、松代大本営地下壕については、掘削作業を女性が担ったことを示す資料は、現在確認されていない。
工事中には事故や病気、栄養失調などで亡くなった人も少なくないと考えられている。犠牲者数についても確定した記録は存在しないが、研究者の間では100~200人程度と推定されることが多い。
地下壕内には現在のような空調設備はない。それでも年間を通して約15℃前後という一定した温度が保たれている。厚い岩盤そのものが巨大な蓄熱体となり、外気の影響をほとんど受けないためである。換気は坑口や立坑を通じた自然換気が基本で、現在も自然な空気の流れによって壕内の環境が保たれている。そのため現在でも壕内の空気は比較的よどまず、一方で湿度は高く、岩盤から染み出した地下水が壁面や天井を伝い、水滴となって落ちる場所がある。
現在一般公開されている入口は、象山地下壕の西条(恵明寺)口である。
一方、舞鶴山地下壕は現在の気象庁松代地震観測所付近、皆神山地下壕は皆神山麓から掘削が開始された。いずれも山の内部を碁盤目状に掘り進め、20m間隔で縦横の坑道を交差させる計画であった。
終戦の日まで掘削は続けられたものの、この巨大地下都市が本来の目的で使われることは一度もなかった。
終戦後、アメリカ軍は松代大本営を「日本帝国政府秘密司令部(Secret Imperial Headquarters)」とみなし、現地調査を実施。地下壕の規模や用途、完成度などを記録し、軍事施設としてどう処分すべきかを検討している。
現在見つかっているGHQ文書では、松代の地下司令部は「Destroy(破壊せよ)」という処分勧告が記されている。
しかし、この「Destroy」という指示が実際には徹底して実行された形跡はない。
1947年(昭和22年)、中央気象台(現在の気象庁)が舞鶴山地下壕に地震観測施設を設置する。その後、1965年頃の松代群発地震を契機に観測設備が大幅に強化され、現在も世界有数の地震観測拠点として利用されている。 地下壕の概要は資料から分かる。しかし、実際に人が生活することを考えると、いくつか気になる点がある。
地下壕から出た膨大な岩石(ズリ)は、どこへ運ばれたのだろうか。
1947年に米軍が撮影した航空写真には、象山では坑口のある清野側、舞鶴山では開善寺経蔵付近、皆神山では坑口付近に、白いズリ山がはっきり写っているという。 戦後、その多くは東京へ運ばれ、道路工事の敷石などとして再利用されたという。
地下空間では、花崗岩などから発生するラドンが問題になることがあるが、松代大本営でラドン濃度が問題になったという記録は見つからない。また、長年にわたり気象庁の地震観測施設として利用されているが、岩盤自体の健康被害が問題になったという報告も確認されていない。
「地下都市」として機能させるなら、人が生活するためのインフラが必要になる。掘削計画や配置図は多く残っているが、生活インフラの詳細はあまり残っていないという。 上水についてだが、何千人も生活するなら、飲料水だけでも一日に数十トン必要になるが、どこから給水する計画だったかを示す詳細な配管図は見つかっていないらしい。 排水については、地下壕の床面に緩い勾配が付けられており、自然排水できるよう掘られていたと考えられる。実際に歩いてみると、床の片側に水が流れている場所がある。
地下壕で多くの人が活動するためには、空気の循環も欠かせない。現在確認できる資料からは、坑口や立坑を利用した自然換気が基本であったことが分かっている。一方で、大本営や政府機関など数千人規模の利用を想定した場合に、どの程度の換気能力を見込んでいたのかを示す詳細な設計資料は確認されていない。現在公開されている地下壕でも、空気のよどみは比較的少なく、年間を通して約15℃前後の温度が保たれている。これは厚い岩盤が外気の影響を受けにくく、坑口などを通じて自然に空気が循環しているためと考えられている。
松代大本営は完成すれば、本当に数千人が生活できる地下都市として機能したのだろうか。
掘削計画は数多く残されている一方、生活インフラに関する資料は限られている。
そのため、この問いにはいまも明確な答えが出ていない。
太平洋戦争の戦局は急速に悪化し、1944年(昭和19年)7月にサイパン島が陥落すると、アメリカ軍のB-29爆撃機が日本本土を直接攻撃可能になった。東京への大規模な空襲が現実味を帯びたことで、大本営や政府機関、通信施設、さらに天皇の御座所を内陸へ移す構想が具体化する。
候補地の調査は長野県内で行われたが、松代以外にどの地域が正式な候補として比較されたのかは、公開資料では明確ではない。
1944年5月ごろ、陸軍の井田少佐らが信州で適地を探し、松代付近を移転先として報告した。その後、松代を中心に、象山・舞鶴山・皆神山の三地区、さらに須坂方面や善光寺周辺などへ関連施設を分散配置する計画が進められた。
着工は1944年11月11日。
終戦の1945年8月15日まで、およそ9か月という異例の短期間で工事が続けられた。
この間、工事は昼夜二交替制で進められた。ダイナマイトで岩盤を破砕し、人力とトロッコで岩石を搬出するという、現在から見れば極めて原始的な工法である。それでもわずか約9か月で、総延長約10kmに及ぶ地下壕計画の約75~80%が完成したとされる。計画そのものが、いかに国家の最優先事項であったかを物語っている。
地下壕は一か所ではなく、三つの山に分散して建設されている。
最も規模が大きいのが象山地区(イ号倉庫)である。
この「イ号倉庫」という名称は、軍が計画を秘匿するために付けた符号だった。
実際にここに入る予定だったのは、政府各省の主要部、日本放送協会(NHK)の海外局、中央電話局などの行政・通信機能だった。計画延長は約7.5km、終戦時には約5.9kmが掘削され、約80%まで完成していたとされている。現在一般公開されている地下壕は、この象山地下壕の一部約500mである。
一方、舞鶴山地区(ロ号倉庫)には、大本営参謀本部と天皇・皇后の御座所、宮内省を置く中枢施設として計画された。地下壕の延長は約2.6kmで、終戦時には約90%まで完成。現在も地下壕の大部分は気象庁松代地震観測所として利用されており、極めて安定した岩盤環境を生かした世界有数の地震観測施設となっている。
皆神山地区(ハ号倉庫)は、当初は大本営や御座所の候補地だったが地質条件が適さないことから食糧や物資を保管する巨大な備蓄庫へと計画が変更された。総延長は約1.9km。終戦時にはほぼ掘削は完了していた。現在は崩落の危険があるため非公開となっている。
さらに、この三地区以外にも、善光寺周辺や須坂方面には送受信施設や印刷局などを配置する「ニ号」「ホ号」「ヘ号」「ト号」「チ号」「リ号」などの関連施設が計画されていた。つまり松代大本営とは、単なる地下壕ではなく、一つの「地下都市」を建設する計画であった。
松代が選ばれた理由の一つが、堅固な岩盤である。
象山地下壕の壁面には、安山岩質のひん岩(玢岩)が広く分布すると考えられている。ひん岩は地下浅部でゆっくり冷え固まった火成岩で、現在の分類では安山岩質岩脈として扱われることが多い。圧縮強度は100~250MPa程度に達することもあり、花崗岩に匹敵するほど硬い岩石である。局所的には凝灰角礫岩や凝灰岩も分布すると考えられるが、公開区間の大部分は非常に緻密で硬い安山岩質岩盤で構成されているとみられる。
この岩盤の存在が、地下壕を素掘りのままで維持できた理由でもある。
公開区間ではコンクリートで覆われた部分はごく一部で、大半は80年以上経った現在でも岩肌がそのまま露出している。崩落が少なく、気象庁が戦後に地下壕を地震観測施設として転用したことも、この岩盤の安定性を裏付けている。
一方で、この硬い岩盤は工事を難しいものにした。
現在のトンネル工事のような大型掘削機械は存在せず、削岩機で穴を開け、ダイナマイトで発破し、砕けた岩石を人力で搬出するしか方法はなかった。坑道内は照明も限られ、粉じん、騒音、振動の中での重労働が続いた。
工事には延べ約300万人が従事したとされる。 資料では、日本人男性労働者、朝鮮半島出身の男性労働者、建設会社(西松組・鹿島組など)の作業員、勤労動員された男性が主体だったことが確認でき、実際に現場で働いた朝鮮半島出身者は約6,000~7,000人と推定されている。
一方、地域住民や女性も炊事や飯場の運営、勤労奉仕などの形で工事を支えた。戦時中には女子挺身隊が防空壕掘削などの土木作業に従事した例は全国にあるが、松代大本営地下壕については、掘削作業を女性が担ったことを示す資料は、現在確認されていない。
工事中には事故や病気、栄養失調などで亡くなった人も少なくないと考えられている。犠牲者数についても確定した記録は存在しないが、研究者の間では100~200人程度と推定されることが多い。
地下壕内には現在のような空調設備はない。それでも年間を通して約15℃前後という一定した温度が保たれている。厚い岩盤そのものが巨大な蓄熱体となり、外気の影響をほとんど受けないためである。換気は坑口や立坑を通じた自然換気が基本で、現在も自然な空気の流れによって壕内の環境が保たれている。そのため現在でも壕内の空気は比較的よどまず、一方で湿度は高く、岩盤から染み出した地下水が壁面や天井を伝い、水滴となって落ちる場所がある。
現在一般公開されている入口は、象山地下壕の西条(恵明寺)口である。
一方、舞鶴山地下壕は現在の気象庁松代地震観測所付近、皆神山地下壕は皆神山麓から掘削が開始された。いずれも山の内部を碁盤目状に掘り進め、20m間隔で縦横の坑道を交差させる計画であった。
終戦の日まで掘削は続けられたものの、この巨大地下都市が本来の目的で使われることは一度もなかった。
終戦後、アメリカ軍は松代大本営を「日本帝国政府秘密司令部(Secret Imperial Headquarters)」とみなし、現地調査を実施。地下壕の規模や用途、完成度などを記録し、軍事施設としてどう処分すべきかを検討している。
現在見つかっているGHQ文書では、松代の地下司令部は「Destroy(破壊せよ)」という処分勧告が記されている。
しかし、この「Destroy」という指示が実際には徹底して実行された形跡はない。
1947年(昭和22年)、中央気象台(現在の気象庁)が舞鶴山地下壕に地震観測施設を設置する。その後、1965年頃の松代群発地震を契機に観測設備が大幅に強化され、現在も世界有数の地震観測拠点として利用されている。 地下壕の概要は資料から分かる。しかし、実際に人が生活することを考えると、いくつか気になる点がある。
地下壕から出た膨大な岩石(ズリ)は、どこへ運ばれたのだろうか。
1947年に米軍が撮影した航空写真には、象山では坑口のある清野側、舞鶴山では開善寺経蔵付近、皆神山では坑口付近に、白いズリ山がはっきり写っているという。 戦後、その多くは東京へ運ばれ、道路工事の敷石などとして再利用されたという。
地下空間では、花崗岩などから発生するラドンが問題になることがあるが、松代大本営でラドン濃度が問題になったという記録は見つからない。また、長年にわたり気象庁の地震観測施設として利用されているが、岩盤自体の健康被害が問題になったという報告も確認されていない。
「地下都市」として機能させるなら、人が生活するためのインフラが必要になる。掘削計画や配置図は多く残っているが、生活インフラの詳細はあまり残っていないという。 上水についてだが、何千人も生活するなら、飲料水だけでも一日に数十トン必要になるが、どこから給水する計画だったかを示す詳細な配管図は見つかっていないらしい。 排水については、地下壕の床面に緩い勾配が付けられており、自然排水できるよう掘られていたと考えられる。実際に歩いてみると、床の片側に水が流れている場所がある。
地下壕で多くの人が活動するためには、空気の循環も欠かせない。現在確認できる資料からは、坑口や立坑を利用した自然換気が基本であったことが分かっている。一方で、大本営や政府機関など数千人規模の利用を想定した場合に、どの程度の換気能力を見込んでいたのかを示す詳細な設計資料は確認されていない。現在公開されている地下壕でも、空気のよどみは比較的少なく、年間を通して約15℃前後の温度が保たれている。これは厚い岩盤が外気の影響を受けにくく、坑口などを通じて自然に空気が循環しているためと考えられている。
松代大本営は完成すれば、本当に数千人が生活できる地下都市として機能したのだろうか。
掘削計画は数多く残されている一方、生活インフラに関する資料は限られている。
そのため、この問いにはいまも明確な答えが出ていない。

たぶんあの山のあたりではないかと推察。
場所ごとの名前と役割は以下の通り。
- 舞鶴山地下壕(まいづるやまちかごう):天皇御座所や大本営陸軍部が置かれる予定だった中心地。現在は「気象庁松代地震観測所」として現役で利用されているため、内部の一般見学はできない。
- 皆神山地下壕(みなかみやまちかごう):日本政府の各省庁が予定されていた壕で、現在は閉鎖されている。
- 松代象山地下壕(まつしろぞうざんちかごう):一般に広く知られ、観光客がヘルメットを着用して内部を見学できるのはこの場所のみ。大本営の政府機関や日本放送協会(NHK)などが移転する予定だった壕で、総延長のうち約500メートルが長野市によって無料公開されている。

駅からの位置関係はこんな感じ。(左下にあります)

こちらが壕への入口。

壕の入口周辺はかなり整えられています。

説明とルールはこちら。

全体図はこちら。

ここでヘルメットを装着します。
湿度が高い箇所があるためサンダルなどは厳禁。
運動靴で行くべき場所です。

壕に入るには受付でのチェックが必要です。

壕に入る扉は解放厳禁です。
小動物が入るからと受付では言っていましたが、
熊も入っちゃうんじゃないかな。
この辺りに出没するらしいし。

入口からのびるスロープ。
この下がどうなっているのか逆に気になります。
階段なのかな?

この辺りは明るいのですが、この先どんどん暗くなります。
このスロープの下はコンクリートなどで安定化された盛土・擁壁構造になってるらしい。

スロープを下り切ったところで、一度天井が低くなっています。
つまり、スロープがある部分までは公開用に整備された箇所と言えそうです。

岩が削られたままの壕の壁。

一部補強されている箇所がありました。
マットを敷いているということは、床が常に抜けている部分なのかも。

蝙蝠が羽ばたく音がします。
というか、目の前を横切ります。
調べてみると、キクガシラコウモリ類である可能性が高いらしい。

歩きながら撮っているのでブレブレですが、
撮りたかったものは鋼製支保工の屋根に乗っている丸太。
平面ではない天井を支えるクッションのような役割があるのかも。
(岩盤から支保工への荷重を分散する)

公開範囲が約500mということは、往復1km歩くことになります。
閉所恐怖症の方には向かない場所かも。

通路の突き当り奥に緑が見える開口部がある。
換気のためにあけられた立坑(地上へ通じる開口部)かもしれない。

ところどころにフェンスで覆われた通路があるがあるけれど、凝視するのはちょっと怖い。

「現在地」と書かれた箇所に立っていますが、見学できる先はまだまだあります。
最終点まで行くと戻るのに時間がかかるため今回は断念しました。
(電動キックボードが欲しい)
ところで、部屋はどこにあるのか?

通路の先を照らしている箇所がありました。
崩れていますね。(または未掘削か)

岩肌をよく見ると苔が生えていました。
苔の胞子はどこから運ばれたんだろう?
(ズームしたけれど撮れなかった)
見間違いで藻類だった可能性もあるが。

薄っすらと緑色でしょ?

通路の先を照らしている箇所がありました。
崩れていますね。(または未掘削か)

岩肌をよく見ると苔が生えていました。
苔の胞子はどこから運ばれたんだろう?
(ズームしたけれど撮れなかった)
見間違いで藻類だった可能性もあるが。

薄っすらと緑色でしょ?
松代の岩盤は浅間山の100倍以上古い約1,500万年前のものらしいです。
眠っていた岩盤が82年前に掘り起こされて今に至る。戦争遺構ではあるのですが、硬い岩盤がどのように風や水で風化するのかを確認できるフィールドでもある気がします。
岩盤から地下水が染み出し、穴をあけたことで水の流れが出来た。
見学通路を人が歩くことで、胞子や虫などを運び、苔または地衣類が育つかもしれない。
蝙蝠が飛び交い、糞(窒素,リン,有機物が含まれる)をすることで微生物が育つかもしれない。
戦争遺構は日々変化し、数十年後にこの地下壕は、戦時中に人が思い描いた姿とは大きく異なる風景になっているかもしれない。
この遺構が自然に還る姿を手を加えずに未来に送ること。
それもまた、「平和」という姿の一つなのかもしれないと感じました。

【松代象山地下壕(まつしろぞうざんちかごう)】
長野県長野市松代町西条479-11
入壕可能時間 9:00~16:00 (入壕は15:30まで)
休壕日:第3火曜、年末年始(12/29~1/3)
※点検等による臨時休壕あり























松代大本営跡、記事で読むまで知りませんでした。
長野県は大好きで山梨在住時に全道の駅を回る程、度々訪れた場所でしたが
まだまだ知らない場所があるんだなぁ。
記事を読み、一度は訪れてみたいと興味を持ちました。
現在で言うところの「首都機能移転」、戦時中にも推し進められていたんですね。
ネット情報ですが、松代が選ばれた理由は
・地理的条件: 本州の中央部(長野盆地)に位置し、
海岸線から遠く、当時の米軍機の行動半径外に
あったこと
・地形と地質: 象山(ぞうざん)や舞鶴山
(まいづるやま)などがあり、トンネルを
掘るのに適した硬い岩盤(松代層)を有していた事
10トン爆弾にも耐えうると考えられたこと
・航空・交通の利便性: 周辺に川中島の平坦地があり、
陸軍の松代飛行場
(現・長野市松代町周辺)が近かったこと
・隠蔽(いんぺい)のしやすさ
山々に囲まれた盆地であり、周囲から
軍事施設の存在を隠しやすかったこと
・精神的背景: 「信州」という地名が
「神州(神の国)」に通じるとされ、天皇を迎える
場所としてふさわしいという宗教的・精神的な理由
も考慮されたこと。
などだそうですが、大本営や政府機関、通信施設、さらに天皇の御座所を内陸へ移す構想としては、あまりにも調査が曖昧でいかに戦局が追い詰められていたかということが伝わってきます。
現在の技術を持ってしても容易なことではないでしょう。 続きます