「夢に見る場所」というタイトルから想像される内容は、少なくとも三種類あるかもしれない。
実際に夢に出てくる場所
強く記憶に残っている場所
なぜか繰り返し訪れてしまう場所
私がここで語るのは、タイトル通りの「実際に夢に出てくる場所」である。
私は建物内部から外を見ている。
建物は細部まで同じではないが間取りなどはほぼ同じ。
開口部は開いた状態で、空気は循環しており、閉塞感はない。
人の気配はほとんどないが、なぜか鳥の気配がある。
鳥の姿はいつも見えない。
場所についての怖さはなく、寂しさも無く、ただここは「自分の場所である」という感覚がある。
そして私は、その場所を知らない。
私は子供のころから明晰夢を見る。
明晰夢(めいせきむ)とは、眠っている最中に「これは夢だ」と自覚し、夢の中で自分が置かれている状況や行動を自分の意思でコントロールできること。
むろん、コントロールが失敗することもあるが、そういうときは直ぐに目覚める。
同じ間取りの建物を夢に見るとき、私は建物内を探索する。
建具や、座卓の上の小物を見る。
しかしそれらは全て自分のものではなく他人のものだという感覚がある。
家族ではなく、他人のもの。 いつもここに違和感を覚える。
自分の場所なのに、他人のものがある。
確認する度に、心が少しざわつく。
建物には縁側があり、私は座敷以外に移動することが無い。
ゆえに台所などの水回りについて正確な位置が分からない。
鳥は奥座敷から少し突き出た四畳ほどの居間に居るらしい。
その場所があることは認識しているが、そこに行くことは今後も無いと確信している。
鳥は私がそこに居ることを知っている。
鳥が私を認識しているということを私は知っている。 建物の外から誰かの話し声がする。 私の興味はそちらに移る。
開口部から外を見ると、人は目線より下に立っている。
どうやら私が居るのは高台にある建物だったらしい。
私は決して建物の外には出ない。
座敷のうち二部屋以外に移動することもない。
玄関がどこにあるのかも知らない。
敷居をまたぐ自由はあるのに、私はそれをしない。
閉ざされた空間ではないのに、私は外に出ない。
外が怖いとか、部屋が落ち着くなどという感情は一切ない。
ただ何かを理解していて、私はそこに居る。
今気付いたが、私はここでは視線を上に向けることがほぼ無い。
天井どころか、欄間を見ることもない。
夢の中では欠片も考えなかったが、こうして文字にしてみると見えてくるものがある。
これは現実世界の生き方に似ている。
私はここに居る。
今ある場所が世界のすべてであるかのように。
長い時間の概念からすれば、私は今を通り過ぎる人である。
「これでいい」と思っているので視界の狭さすら気にならない。
視野の外にあることは自分の役割ではないと考えている。
私が体感している明晰夢は、現実の私の能力外のことをしない。
そもそもできない。
夢だと流れるようにビアノが弾けるとか、オペラ歌手のように歌が歌えるわけでもない。
アスリートのように走れるわけでもなく、夢で逢う人々に天才的なアドバイスができるわけでもない。
夢の中でも私は私なのである。
夢に見る場所は「自分の場所である」と考えているが、全て自分のものではなく他人のものだという感覚もある。
夢で見ている視野は、現実の私の視野の狭さなのかもしれない。
ただ、その考察で進めると、大きな謎がある。
存在のみを知らしめてくる、鳥である。
鳥の姿が見えないが、鳥かごに居るのだろうと想像している。
鳴き声を聞いたことが無いのに、鳥がそこに居ると知っている理由はわからない。
いつか判明する日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
鳥はそこに居る。私もそこに居る。
ふたつの存在はほぼ動かない。
しかし空気は流れている。
次に訪れたときも、きっと同じなのだろう。
そして私は、知らない場所を自分の場所だと思い続ける。

この文章からAIがイメージした建物。

実際に夢に出てくる場所
強く記憶に残っている場所
なぜか繰り返し訪れてしまう場所
私がここで語るのは、タイトル通りの「実際に夢に出てくる場所」である。
私は建物内部から外を見ている。
建物は細部まで同じではないが間取りなどはほぼ同じ。
開口部は開いた状態で、空気は循環しており、閉塞感はない。
人の気配はほとんどないが、なぜか鳥の気配がある。
鳥の姿はいつも見えない。
場所についての怖さはなく、寂しさも無く、ただここは「自分の場所である」という感覚がある。
そして私は、その場所を知らない。
私は子供のころから明晰夢を見る。
明晰夢(めいせきむ)とは、眠っている最中に「これは夢だ」と自覚し、夢の中で自分が置かれている状況や行動を自分の意思でコントロールできること。
むろん、コントロールが失敗することもあるが、そういうときは直ぐに目覚める。
同じ間取りの建物を夢に見るとき、私は建物内を探索する。
建具や、座卓の上の小物を見る。
しかしそれらは全て自分のものではなく他人のものだという感覚がある。
家族ではなく、他人のもの。 いつもここに違和感を覚える。
自分の場所なのに、他人のものがある。
確認する度に、心が少しざわつく。
建物には縁側があり、私は座敷以外に移動することが無い。
ゆえに台所などの水回りについて正確な位置が分からない。
鳥は奥座敷から少し突き出た四畳ほどの居間に居るらしい。
その場所があることは認識しているが、そこに行くことは今後も無いと確信している。
鳥は私がそこに居ることを知っている。
鳥が私を認識しているということを私は知っている。 建物の外から誰かの話し声がする。 私の興味はそちらに移る。
開口部から外を見ると、人は目線より下に立っている。
どうやら私が居るのは高台にある建物だったらしい。
私は決して建物の外には出ない。
座敷のうち二部屋以外に移動することもない。
玄関がどこにあるのかも知らない。
敷居をまたぐ自由はあるのに、私はそれをしない。
閉ざされた空間ではないのに、私は外に出ない。
外が怖いとか、部屋が落ち着くなどという感情は一切ない。
ただ何かを理解していて、私はそこに居る。
今気付いたが、私はここでは視線を上に向けることがほぼ無い。
天井どころか、欄間を見ることもない。
夢の中では欠片も考えなかったが、こうして文字にしてみると見えてくるものがある。
これは現実世界の生き方に似ている。
私はここに居る。
今ある場所が世界のすべてであるかのように。
長い時間の概念からすれば、私は今を通り過ぎる人である。
「これでいい」と思っているので視界の狭さすら気にならない。
視野の外にあることは自分の役割ではないと考えている。
私が体感している明晰夢は、現実の私の能力外のことをしない。
そもそもできない。
夢だと流れるようにビアノが弾けるとか、オペラ歌手のように歌が歌えるわけでもない。
アスリートのように走れるわけでもなく、夢で逢う人々に天才的なアドバイスができるわけでもない。
夢の中でも私は私なのである。
夢に見る場所は「自分の場所である」と考えているが、全て自分のものではなく他人のものだという感覚もある。
夢で見ている視野は、現実の私の視野の狭さなのかもしれない。
ただ、その考察で進めると、大きな謎がある。
存在のみを知らしめてくる、鳥である。
鳥の姿が見えないが、鳥かごに居るのだろうと想像している。
鳴き声を聞いたことが無いのに、鳥がそこに居ると知っている理由はわからない。
いつか判明する日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
鳥はそこに居る。私もそこに居る。
ふたつの存在はほぼ動かない。
しかし空気は流れている。
次に訪れたときも、きっと同じなのだろう。
そして私は、知らない場所を自分の場所だと思い続ける。

この文章からAIがイメージした建物。























またまた興味深い記事だったのでコメントします。
夢に関しては私も興味があり、一時期「夢ノート」なるものを枕元に置いて書いておりました(時間が経つと忘れてしまう夢が多いので)
「何度も夢に見る場所」が私には2種類あります。
あまりにも何度も見過ぎて覚えているのですが
savaさんとの違いは明晰夢でなくコントロール不可な所です。
ただ、コントロール不可なのに自分の言動に違和感は感じず現実の自分のまま存在する感じです。
そして毎回登場人物がおり、毎回違う。
面識のある実在する人物もおり、全く知らない人物もおり混在した中で様々なストーリーが展開していきます。
知らない人とも前からの知り合いのように話し、そこに違和感を感じません。
1つ目の夢はいつも同じ建物で何回も見過ぎて間取りも覚えています。
家のような間取りではなくビルで所々壁が崩れており、机や椅子が乱雑に並んでます。
ただその建物は現実には行ったことも見たこともない建物です。
そして建物内は自由に行き来できますが外には出ない(出られない?)
savaさんと共通してるのは知らない場所なのに自分の居場所だと思っている所です。
続きます