
私は人混みが苦手だ。
大好きな富山県にインバウンド需要が高まっていると知ってから足が遠のくほどに。
そのうえ富山市がニューヨーク・タイムズ紙紙の「2025年に行くべき52カ所」に選ばれたことで、行こうという気が全く湧かなくなった。
ちなみに、富山・金沢・白川郷・高山などを線で結ぶルートを、「サムライルート(新ゴールデンルート)」と呼ぶらしい。今後もこの辺りはインバウンド客で混雑し続けるだろうと想像している。
大好きな場所でも行かなくなるということは、私は場所ではなく、あの空気感が好きだったのかもしれない。
「あの空気感」というのは、「まだ人に見つかっていない自分だけの楽園感」である。
大好きだからその魅力を誰かに知って欲しいけれど、みんなに知られると魅力が失せる。
そういう性質を私は持っているようだ。
東京で特に苦手な駅が三つある。
新宿駅、渋谷駅、池袋駅がそれである。
年中工事をしていて場所が覚えにくい以上に、人が多すぎる。
行くと猛烈に疲れる。
半端なく疲れる。
あの、帰宅後のダルさが嫌いだ。
しかし、同じような状態なのに全く疲れない駅もある。
それは、東京駅と上野駅。
いったい、この違いは何なのか?
駅は旅の起点である。
私は主に東京駅と上野駅から旅に出る。
渋谷駅や池袋駅から旅に出ることはないし、新宿駅から旅に出ることも滅多にない。
私の中で東京駅と上野駅は外に開かれた駅ゆえに開放感があり、新宿駅、渋谷駅、池袋駅は外に開かれていないため閉塞感を覚えるのかもしれない。
開放感と閉塞感。
これがキーワードかもしれない。
富山県が好きだった理由は、とても良いところなのに人混みがあまりなく、開放感があった。
それがインバウンド需要により人混みが生じ、息苦しいさを予感させる場所になってしまった。
息苦しいのは苦手だ。
風が流れない場所は苦手だ。
何かが滞留している場所はかなり苦手だ。
言葉を填めるならば、「淀み」。
東京駅と上野駅では、慣れているがゆえに「淀み」に対して寛容になれる。
しかし、新宿駅、渋谷駅、池袋駅では慣れていないがゆえに自分が「淀み」になる。
それが嫌なのかもしれない。
私は先のテーマで、
生地の湧水、須沢海岸の石、由比のひとびと、笠間の風、南魚沼の爽快感、上諏訪・茅野の昔の人々の営み、金沢の神明宮の境内にあるケヤキ、白水阿弥陀堂の境内全域、甲府の山を背にした立地、白州の尾白川と川底の砂が好きだと書いた。
生地の湧水は絶えず流れ続けている。白州の尾白川も同じだ。
須沢海岸の石と尾白川と川底の砂は波に洗われ続けているし、
神明宮の境内にあるケヤキは風に靡いている。
笠間や白水阿弥陀堂の境内にも風は吹き抜けているし、
由比のひとびとは宿場町を行き来している。
こうして見ると、これらの場所にはほぼ「淀み」を感じない。
論文的に要約すれば、
視覚的・感覚的な息苦しさは、脳が空間情報を不快感として処理することで起こる。
動線の遮断、過密、暗く重い色、強すぎるコントラスト、過多な情報、パーソナルスペースの侵害などがそれである。
例に漏れず私もそういうことにストレスを感じているようである。
私が苦手な場所は閉塞感があるところ。
好きな場所は開放感がある場所。
違いはそこにあるのかもしれない。
あるいは、もっと単純に、流れているか、淀んでいるかの違いなのかもしれない。
もっとも、
上諏訪・茅野の昔の人々の営みに惹かれる理由については、
相変わらず謎のままなのだが。






















