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日枝神社の山王稲荷神社、神田明神の宮本公園側、大手町の将門の首塚、根津神社、戸山公園の箱根山、亀戸天神、護国寺、そして千代田区富士見のあたり。

私にとっては、これらの場所には言葉にしづらい違和感がある。
不快というほどではないが、どこか緊張し警戒するような説明しがたい感覚。

この身体感覚は、何なのだろう?

これらの違和感を覚える場所を地図上に落としてみると、ある共通点に気づく。

台地の縁や谷の入口、低地との境目といった「地形の変わり目」に集中しているのだ。

日枝神社は麹町台地の東の縁にあり、神田明神は本郷台地の南東端の突端に位置する。
護国寺もまた雑司が谷台地の突端に立ち、根津神社は本郷台地の東縁に刻まれた「谷戸(やと)状の低地」に抱かれるように鎮座している。

亀戸天神はかつて利根川や荒川の下流に広がっていたデルタ地帯(低湿地)に鎮座し、千代田区富士見周辺には、かつて雨水や湧水が長年かけて台地を侵食して作った樹枝状(じゅしじょう)の谷地形が残る。

少しズレるが、戸山公園の箱根山は江戸時代に人工的に築かれた築山(つきやま)であり、将門の首塚は武蔵野台地の東端(麹町台地)の縁の直下、かつて日比谷入江と呼ばれた海岸線付近にあたる。

高台と低地。
乾いた場所と湿った場所。
自然地形と人工地形。
これらの場所は「地形の変わり目」なのである。

興味深いのは前述した「地形の変わり目」が、江戸の実務的な都市設計や、徳川家康のブレインであった僧侶・天海が用いた風水(陰陽道・四神相応)の思想と深く結びついていることだ。

風水において最も不吉な方角とされる北東の鬼門に神田明神、その反対側である南西の裏鬼門に日枝神社が鎮座している。日枝神社においては、台地の突端に構えることで豊臣側の残党などからの物理的な襲撃を防ぐ城塞の役割も担っていたらしい。


江戸は大地の起伏や川の流れに従って築かれた都市だとすると、現代の東京はそれとは逆の方向へ進んできた都市である。川は暗渠となり、湿地は埋め立てられ、崖は擁壁で固定される。
地下水は制御され、高低差は道路やエレベーターによって平準化されている。
江戸が地形に従って都市を築いたのに対し、現代東京は地形そのものを制御し、克服することで拡大してきたと言えるかもしれない。
それでもなお、神田明神や日枝神社、根津神社、将門の首塚のような場所では、かつての都市設計の思想が完全には消えてはおらず、現代の均質な都市空間のなかに江戸以前から続く「地形の記憶」が露出している。

実は、はじめに上げた場所の多くには、「歴史の連続性が途切れていない」という共通点がある。
1945年の東京大空襲によって市街地の大半は焼失した。
戦後多くの街並みは再建され、新しい都市として上書きされているが、護国寺の本堂、将門の首塚、日枝神社の山王稲荷神社などのように例外がある。周囲の街が戦後の再開発によって均質な都市空間へと更新されるなか、これら一角だけは、戦火をくぐり抜け、数百年前の時間が固定されたまま現代に据え置かれている。
一歩足を踏み入れた瞬間に生じるその「時代の境目」のような感覚の歪みが、私の脳に「何か違う」と感じさせるのかもしれない。


私がどうしても直視できないのは、大手町の将門の首塚である。
ここは東京のど真ん中である大手町の超高層ビル群に囲まれながら、千年以上に渡り誰も動かすことができなかった場所である。東京で最も畏怖され、同時に深く崇敬されてもいる。知人曰く、周囲のビルにオフィスを構える企業は、窓から首塚を見下ろす形になるデスク配置では、首塚に背を向けないように座るのだとか。


さて、ここまで書いておいて身も蓋もないのだが、結局のところ、私が感じていた違和感の正体は分からない。


確かに、気になる場所には地形の変わり目が多かった。

江戸の都市設計や風水の思想とも興味深い一致が見られた。
歴史の連続性という共通点もある。

しかし、それらを知ったからといって、将門の首塚や、日枝神社の山王稲荷神社で覚える緊張感が解明できた気がしない。

むしろ調べれば調べるほど、新しい疑問が増えたようにも思う。

それでも、この考察に意味がなかったとは思わない。

少なくとも私は、東京の中に自分が繰り返し反応する場所があることに気付いた。そして、それらの場所が偶然ではなく、地形や歴史の上に存在していることも分かった。

それが今回の考察の成果かもしれない。

違和感の正体は、まだ分からない。

ただ、次に同じ感覚を覚える場所に出会ったとき、私はまた、その「説明しがたい感覚」に名前を付けたくなるだろう。

答えがあるかもしれない。または、答えが見つからないかもしれない。
しかし理由を探すことは自分を知ることなのではないかと、今の私は思い始めている。




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