日本の気になる「場所」について、私的考察を認める(したためる)ことにしました。
長文になることが多くなりそうなので、お時間とご興味のある方が居られればお付き合いください。

今回記す「御頭御社宮司総社(おとうみしゃぐちそうしゃ)」は、諏訪地方の土着神「ミシャグジ神(御社宮司神)」を祀る総社で、長野県の諏訪大社の神官を代々務めた神長官守矢家の敷地内にあります。


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御頭御社宮司総社の祠の前に立ったとき、私が感じたのは、清々しさと禍々しさが同時に存在するような、言葉にしがたい空気だった。
神社を訪れて「心が洗われる」と表現されるような感覚とも違う。むしろ、どこか神経がひりつき、得体の知れないものを前にした高揚と怖れが入り混じる。
その相反する感覚が、なぜこれほど狭い空間に共存しているのか。
その違和感を手掛かりに、この土地を地質、生態系、記憶、そして人間の制度という複数のレイヤーから見つめ直してみたいと思った。

まず、この諏訪の地そのものが、常に大地の力に晒されてきた場所である。諏訪盆地は糸魚川―静岡構造線断層帯の影響下にあり、地殻変動の痕跡が色濃く残る地域として知られている。
地震や斜面崩壊、土石流といった災害は、往々にして山の上から人々の暮らしへと迫ってくる。山裾に集落を築いた人々にとって、山際は恵みの入り口であると同時に、危険の入り口でもあったはずだ。
そう考えると、山際に点在する祠の存在も、単なる信仰施設としてだけではなく、災いへの警戒を刻み込む境界標識としての意味を持っていたのではないかと思えてくる。
目には見えない自然の脅威に名前を与え、畏れを共同体の記憶として共有する。それは、現代でいうハザードマップにも似た役割だったのかもしれない。

諏訪には古くからミシャグジという存在が語られてきた。しかし、その正体は必ずしも明らかではない。蛇神とも祖霊とも、土地の精霊とも言われ、研究者の間でも解釈は分かれている。

だからこそ私は、その曖昧さそのものに意味があるように思う。名前はあるのに正体は定まらない。人々は説明しきれない自然の気配を、ひとまず「ミシャグジ」と呼び、その畏れと折り合いをつけてきたのではないだろうか。

諏訪上社を象徴する贄の神事についても、単純に「災いを避けるための供犠」とだけ理解するには違和感が残る。猪や兎を狩るための特別な許可である御免状が存在した背景には、増えすぎた獣を適切に間引き、人と山との均衡を維持するという現実的な側面もあったのではないか。
山の生き物が飽和し、食糧不足に陥れば、飢えた獣は里へ下りて田畑を荒らす。人間はその二次的な災害を防ぐため、自然の循環に積極的に関与していた可能性がある。増えすぎれば間引き、その命を神へと還す。諏訪では蛇を大地の霊性と結びつける伝承も残されていることから、その行為は白蛇の姿をした大地の神を宥め、また喜ばせるための糧として理解されていたのかもしれない。
そこには、自然を一方的に支配するのでも、ただ恐れて従うのでもない、共生のための知恵が隠されているように思える。

さらに興味深いのは、この動的な自然の循環のすぐ傍らに、千数百年の時を超えて古墳が存在していることである。もしその古墳が移築されたものではなく、築造当初からそこにあり続けてきたのだとすれば、人々は長い時間の中で「あの場所は残り続ける場所だ」という経験を積み重ねてきたのではないだろうか。災害によって周囲の景観が変化したとしても、なお見え続けるもの。だからこそ、その場所は単なる古墳ではなく、揺らぎの中にある不動のランドマークとして認識されていった可能性がある。
のちに人々が天然痘という不可視の疫病に直面したとき、この古墳を「疱瘡神塚」として捉え直したことにも、私は同じ構造を見る。自然災害であれ疫病であれ、人間は理解しきれない脅威に対して、境界を設定し、意味を与え、制御可能な物語へと組み替えようとしてきた。
私があの場所で感じた、山側へ向けられた緊張感と、古墳がもたらす不思議な安堵感。その背中合わせの感覚こそが、この土地の独特な引力を生み出しているのではないかと思う。

自然への畏れに名前を与え、獣の命を神へ還し、疫病を封じるための結界を築く。そうした営みは、共同体の中で自然発生的に続いたわけではない。そこには、それらを「正しい作法」として管理し、継承する人々の存在があった。

諏訪において、その役割を担ったのが祭祀の担い手たちである。

諏訪の祭祀を担った守矢氏は、口伝によって知識と権威を継承し、外部から容易には介入できない統治の仕組みを維持してきた。見えないものとの付き合い方を「正しい作法」として継承することもまた、人間が自然と折り合いをつけるために生み出した知恵だったのだろう。
その閉じた制度のなかでは、男子による血統の存続はきわめて重要な課題だったはずである。
しかし、制度として語られるその裏側には、跡継ぎを望まれた妻たちの祈りや諦め、安堵や絶望といった、数えきれない悲喜こもごもにも思いを馳せざるを得ない。


もっとも、そうした政治的な思惑や制度の変遷も、さらに長い時間軸で見れば、大地そのものの存在の前では後から重ねられた解釈の一つに過ぎない。
明治の神仏分離も、祭祀の担い手たちの思惑も、疫病への恐怖も、獣を巡る営みも、人間が自然と折り合いをつけるために編み出してきた数多くの方法だった。そして、それらの物語を一枚ずつ剥がしていった先に残るのは、ただ圧倒的な密度でそこにあり続ける自然の循環である。

御頭御社宮司総社の祠の前で私の中に湧き上がった高揚感と怖れは、信仰によって説明し尽くせるものではない。大地が放つ剥き出しの存在感と、人間の奥底に眠る野生の感覚とが、言葉として納まる前に共鳴した瞬間だったのだと思う。
だからこそ私は、あの場所を「神聖だった」と単純に言い切ることができない。
むしろ、整えられた神社では感じにくい自然そのものの息遣いを、あの場所で確かに感じたのである。

清々しさと禍々しさ。
その相反する気配は、自然と人間、秩序と混沌、生と死が、幾重にも折り重なってきたこの土地そのものの記憶かもしれない。

私は今もなお、あの日感じた違和感を、うまく言葉にすることができない。
それでも、あの整わない感覚にもう一度触れたくて、また諏訪へ足を運ぼうとしている。



御頭御社宮司総社の当ブログ記事




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