
『北野天満宮』を参拝しました。
天満宮との相性はとても良く、ご利益も必ずあると信じているワタクシ。
大宰府に続く天神信仰の中心地を参拝でき、とても心が満たされております。
桜の季節で境内が華やいでおり、印象もすこぶる良かったです。

ルートの都合上、東門から入りました。
(重要文化財)

本殿に向かって伸びる灯篭の道。

毎月25日営業の「長五郎餅 北野天満宮境内茶店」は当然閉まっていました。

「竈社」。
カマドということは台所の神様なのかしら?

木製建屋のなかにある古い手水舎の前に近代的な手水舎があります。
(東門脇)

いきなり国宝の本殿を眺める。

本殿手前の透塀は、国の重要文化財に指定されています。

左右の廻廊も国の重要文化財です。

手水舎(楼門脇)

牛の眼が赤い。これは何の石だろう?

境内から見た楼門。
↓

立派な提灯が下がっています。
中央は大丸百貨店のもの?

三光門前の奉納御神燈提灯。
昼でも灯りがついているっぽい。

摂末社あたりにある石の撫で牛。
立派過ぎて引き寄せられるように撫でに行きました。
冷たくて夏場は特に気持ちよさそう。
対面側は那智石みたいな色と手触りの撫で牛でした。

楼門と御本殿の間に建つ中門(三光門)
(重要文化財)
↓

彫刻群が見事です。
↓

じっくり見る時間がなかったのが残念。

本殿の手前にある拝殿。

本殿、石の間、拝殿及び楽の間が国宝に指定されています。

軒が深いので手前からだと拝殿の彫刻群は見えにくいのですが、
祈祷すれば拝殿に昇殿できるようです。

この位置から見ると軒の深さがよくわかるかも。

蟇股(かえるまた)の彫刻も立派。

下から見るとユーモラスな木鼻の獅子。
猫みたいだけれど獅子だよね?

斜め下からしか撮れなかった。たぶん獅子?

拝殿に昇る階段。
御所のイメージっぽくて萌える。

重要文化財の西廻廊。

この三つの道具は何をする(何を表す)ものなんだろう?

橙にしき木の上に巣を作っていた鳥。ヒヨドリか?







西側の紅梅殿に向かう道に枝垂桜が咲いていました。

紅梅殿と船出の庭。
雅(みやび)だ。

境内を流れる小川(用水?)。

小ぶりな枝垂れ桜。

一之保神社(いちのほじんじゃ)への鳥居、かな?

菅公の邸宅の名前が付いた「紅梅殿」。
ゆっくりと一人で回ってみたいと思う、良い場所です。
信仰(寄進)が集まる場なんだと感じられるほど全てが立派ですし。
令和9年(2027年)に斎行される25年に一度の大祭、
「御神忌千百二十五年半萬燈祭」に再訪できるといいなぁ。

御朱印も忘れずいただきました。
この手前が湯島天神の御朱印だったので書く方からすれば
天神巡りをしていると思われたかも?
この北野の地には、天神地祇を祀る現・摂社の地主社と、火雷神を祀る現・摂社の火之御子社の二つの社があった。
昌泰4年(901年)1月に右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって大宰権帥に降格されて大宰府に左遷されるという昌泰の変が起き、延喜3年(903年)に道真は大宰府で無念の死を遂げた。その後、藤原時平が延喜9年(909年)4月に亡くなったり、落雷などの災害が相次ぐと、これが道真の怨霊による祟りだとする噂が広まった。こうして朝廷は、没後20年目となる延喜23年(923年)4月20日に道真の左遷を撤回して右大臣に官位を復し、正二位を贈った。
そんな中、延長8年(930年)6月26日に清涼殿に落雷が直撃し、大納言の藤原清貫と右中弁兼内蔵頭の平希世が死亡するという清涼殿落雷事件が発生した。その上、3ヶ月後に醍醐天皇が崩御してしまうと道真の怨霊によるものとの噂はもはや噂ではなくなってしまい、朝廷は恐れおののいた。また、道真の怨霊は天満大自在天神となったともされ、それが北野の火之御子社の火雷神と結びつき、道真は雷神である火雷天神であるともされた。
天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に道真から、北野に自分を祀る社を立てるようにとの託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)に北野にあった朝日寺(現・東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。そして、曼殊院門跡の是算国師が菅原家の出であったことから是算が初代北野別当職に任じられた。これ以降、曼殊院門跡が北野別当職を歴任することとなった。この後、藤原師輔(藤原時平の甥)によって壮大な社殿に作り直されたという。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。正暦4年(993年)5月20日には正一位・左大臣を、次いで10月20日には太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
昌泰4年(901年)1月に右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって大宰権帥に降格されて大宰府に左遷されるという昌泰の変が起き、延喜3年(903年)に道真は大宰府で無念の死を遂げた。その後、藤原時平が延喜9年(909年)4月に亡くなったり、落雷などの災害が相次ぐと、これが道真の怨霊による祟りだとする噂が広まった。こうして朝廷は、没後20年目となる延喜23年(923年)4月20日に道真の左遷を撤回して右大臣に官位を復し、正二位を贈った。
そんな中、延長8年(930年)6月26日に清涼殿に落雷が直撃し、大納言の藤原清貫と右中弁兼内蔵頭の平希世が死亡するという清涼殿落雷事件が発生した。その上、3ヶ月後に醍醐天皇が崩御してしまうと道真の怨霊によるものとの噂はもはや噂ではなくなってしまい、朝廷は恐れおののいた。また、道真の怨霊は天満大自在天神となったともされ、それが北野の火之御子社の火雷神と結びつき、道真は雷神である火雷天神であるともされた。
天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に道真から、北野に自分を祀る社を立てるようにとの託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)に北野にあった朝日寺(現・東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。そして、曼殊院門跡の是算国師が菅原家の出であったことから是算が初代北野別当職に任じられた。これ以降、曼殊院門跡が北野別当職を歴任することとなった。この後、藤原師輔(藤原時平の甥)によって壮大な社殿に作り直されたという。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。正暦4年(993年)5月20日には正一位・左大臣を、次いで10月20日には太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
天満宮の過去記事

【北野天満宮】
京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
主祭神:菅原道真公
創建:天暦元年(947年)

